マエストロ・キャンプの引き続きの募集
「マエストロ・私をスキーに連れてって2026」キャンプの引き続きの募集です。先シーズンでは、雪があるにはあったのだけれど、豪雪過ぎて、スキー場が閉鎖されてしまったり、ガーラ湯沢では、リフトに乗ると足が下の雪に付きそうになってしまったり、神立スキー場では、深い新雪に一度ハマると、もがいてももがいてもなかなか出られないなど・・・多ければ多いだけ良いわけではないことを身に染みて実感したシーズンでしたが、今シーズンは、今のところ雪の状態も好調で、2月以降は、おそらく各スキー場で理想的な感じで滑ることができるものと予想されています。
何よりも、大自然に囲まれながら、日常のストレスから解放されて、のびのびとした気持ちで体が自然に鍛えられるのは、スキーならではの醍醐味です。生まれて初めてスキー板を履く方も含めて、プロ顔負けの方まで、全てのレベルでの参加が可能。あまりギリギリの申し込みだと、それぞれのレベルに合ったインストラクターの派遣が困難になるので、申し込みはお早めにお願いします。
当キャンプの特徴は、レッスンだけでなく、「音楽に携わる方を対象としたキャンプ」として、講演会及び懇親会がセットになっています。ペンション・カーサビアンカがクローズした後、講演会会場の場所が決まらず、懇親会もなかなかできませんでしたが、今年はリバーサイドやまやの音楽ホールで行うことができるようになりました。宿泊も今のうちならば、そこでできますと楽です。
リバーサイドやまや(このキャンプ用にお部屋を確保していますので、キャンプ申し込みの時に一緒に申し込んで下さい。ただし1人1部屋の宿泊はできません)
【公式サイト】白馬五竜 RIVER SIDE やまや (goryuu.com)
講演会の内容については、僕も角皆君も毎年新しく考えていますが、今年は、もっと深くスキーと音楽とをつなげる良い講演内容にしたいと、いろいろ新しく案を練っているところです。
募集要項をよく読んで、所定のメール・アドレスから申し込んで下さい。なお、申し込みだけではなく、そのアドレスから質問も受け付けています。2月も3月も、土日の本キャンプだけではなく、金曜日のプレ・キャンプからの参加を推奨しています。基本からやり直し、以前自分が到達していたレベルを思い出すことで、本キャンプをより良い状態から始めることが出来ます。
今シーズンは、ふたつのアドレスから申し込めます。どちらでも結構です。ふたつめのアドレスは、年の制限がなく、今後永久に使うつもりで新たに設定しました。ということで、今からの申し込み、大、大、大歓迎です!
maestro-takemeskiing2026@ymail.ne.jp
maestro.takemeskiing@gmail.com
パリの朝焼け
次女の杏奈の夫が洋服のデザイナーで、フィレンツェの展示会で自分のデザインしたものを展示するため、杏奈も同行してフィレンツェに着いた。同行と言っても、フライトは違って、彼女は行き帰りパリ経由のフライトを予約して、行きは約一日、帰りは数日パリに滞在するという。
それで早朝にパリに着いた彼女は、オルセー美術館を訪ねてからフィレンツェに向かった。写真は、朝焼けのパリの街。美しいね。

パリの朝焼け
マーラー第6交響曲の勉強
8月1日に名古屋のMFオーケストラで指揮することになっているマーラー作曲第6交響曲の勉強を、昨年の終わりくらいからのんびりと始めた。はじめは、スコアも開かずに何人かの指揮者の演奏をぼんやりと聴くだけ。つまり曲全体に対するザックリとした印象を先入観なく受け取った。これだけでも、今まで自分がひとりの音楽ファンとしてこの曲を捉えていた感覚とはかなり違う印象を持った。その事は、また後で述べてみよう。
それから、年が明けてスキー場から帰ってきてすぐさまスコアリーディングを再開した。しかしながら今回は、昨年末に聴いていた全ての録音のテンポや解釈を、いったん忘れることにして、全く新たな気持ちで、スコアと向かい合った。
年明けからの僕の作業は、他人が端で見ていたらつまらない勉強をしているというか、恐らく何やっているか分からないだろうな。でも指揮者にとっては、時間が掛かるし地味だけれど、他からの受け売りではなく、自分が感じたままの自分だけの解釈を構築するためには不可欠な作業だ。
具体的にいうと、ある個所の、Bb管やA管のクラリネットとF管のホルンだけのアンサンブルをピアノでポツポツと弾くとか、あるいはスコア全体を見ながら、ゆっくりと曲の概要を弾くとか・・・つまり右手のメロディーを弾いて、左手で和音だけ合っていて簡単に下伴奏を弾くとか。
あるいは、ピアノも使わないで、スコアを見ながら、頭の中でオーケストラ響きをイメージするだけとかだ。人から見たら、まるで本を読んでいるようだろう。ある意味似ているが、違うところは、小説では文章を読みながら頭の中で、人が動いたり、しゃべったり、事件が起こっていったりするが、スコア・リーディングでは、頭の中で音楽が鳴り響き、それによって音楽的な事件が起こって発展していくことだ。僕にとってはこれこそ、たった独りのコッソリとした“お楽しみの世界”に浸っていることを意味する。
音楽という芸術は、絵画などと違って、作者とその芸術の享受者との間に、演奏者という仲介者を必要とする。その際に、その仲介者によって、作者の意図が曲げられてしまうリスクを常に伴う。
それを避けるために作曲家は様々な指示をスコアに書き込むわけだが、たとえばマーラーが、第6交響曲第1楽章冒頭で、Allegro energico, ma non troppo.Heftig,aber markig(快活でエネルギッシュだが、いき過ぎないように。激情的であるが骨のあるがっしりした感じ)と書いた注意が、どれだけの具体性を持つのか疑問である。それどころか、mpひとつとっても、何ホーンと計れるものでもないし、とても抽象的なのだ。
演奏者はスコアだけが頼りなので、スコアに常に還るわけだが、結局は感性を頼りに読み取っていく他はない。というと、限りなくテキトーに感じられるが・・・う~ん・・・言葉では言えないのだが、それでも、
「分かったぞ!」
と確信できる瞬間はかなり頻繁に訪れるし、先ほどから書いている、地味なスコア・リーディングの時間の最中に、作曲家がとても近くに感じられる瞬間というものは、紛れもなく存在する。
その時に、先ほどの表示でも、もう少し踏み込んで、
「快活でエネルギッシュであることには間違いないが、同時に飛び去っていくように軽く邁進し過ぎてはいけない。むしろ地を踏みしめるようにガッシリと重みを持って」とかいうニュアンスなんだろうと、より具体的に分かってくるわけだ。さらに、テンポの数字的な指示はないが、表示を踏まえて、だいたいこのくらいというところにまで落とし込んでこれるわけだ。
時間をかければ良いというものでもないけれど、時間をかけたらかけただけある。1回構築したアイデアを根本から疑って、いろんな可能性を探り、結局最初のアイデアに落ち着いたとしても、最初とは違った確信がある。
その反対に、他人の録音をそのまま安易にスコアを見ながら聴いてしまうと、嫌がおうなく影響されてしまって、もう答え合わせが終わったようになってしまうので、僕はことさらに用心する。
だって、CDになるくらい有名な指揮者だったら、みんなそれぞれに説得力もあり、こちらにしっかりした確信がない場合には、無意識に引きずられてしまうからね。でもそれは所詮、他人の人格から導き出される他人の感性だ。
他人の正解と自分の正解とは違う。だから、自分なりの正解を、自分の感性を全開にして模索し捜し当てるまで、この時期には、スコアと自分の間に他者の介入をなるべく許さないように僕は気を付ける。
いずれ時は来る。自分にしっくり合ったテンポ感やバランス感覚び色彩感は、勉強を続けていれば、いつか自然に向こうからやってくる。そんな時に、再び他人の演奏を聴くならば、逆に僕は、とても性格の悪い人になっていて、
「あの指揮者のあそこは速すぎる。あそこのバランスは、自分ならばもっとクラリネットを出すね」
とか不満だらけになるのだ。つまり唯我独尊となるのだけれども、そうでなければ演奏家というのは駄目なのだ。
現在の自分の勉強は、まだそこまで行っていない。それでも、このような孤独な時間を通して、今の時点で新しく分かったことはある。というか、この曲を外側から眺めていた時と、かなり違った印象になったのだ。
まず、この曲の副題とされるTragische「悲劇的」という言葉に対しては、かなり警戒しなければならないことに気付いた。これは、たとえば第5交響曲のような快活でポジティブな作品の真逆である、という意味で捉えることに留めておいた方が良いと思う。
今の時点での僕の見解としては、仮にあえて「悲劇的」という言葉を使うのを許すとしても、「悲劇的」状況の中に甘んじているものではなく、自分に降りかかってくる「悲劇的状況」に立ち向かって行く「闘争の曲」なのだと思った方が適切ではないか?ということだ。
たとえば、チャイコフスキー作曲「悲愴交響曲」終楽章のようなワールドとは一線を画すとは思いませんか?少なくとも僕は、絶望の中で死に向かって行く「負け犬の音楽」とは思いたくないのだ。
それは僕自身の生き方にも関係している。僕は、自分が人生を終わる時、それが他人から見てどんなに悲惨な状況であったとしても、
「ああ、俺の人生は生きる価値のないものであった」
とかは絶対に思わない。むしろ、
「俺は、自分の人生を最後まで戦ってポジティブに生き抜いた」
と思って死にたい。
そのような僕にとって、第6交響曲は、たとえハンマーで叩き潰されても、「闘争を継続しつつ」終わる作品なのだ・・・というか、そういう作品として捉えたいと思っている。
さて、実際の演奏に際して、この曲には大きな疑問が付きまとっている。一番の問題として楽章の配列がある。つまり第2楽章及び第3楽章の並びをAndante-ScherzoにするかScherzo-Andanteにするかという問題だ。これにはマーラー自身の迷いもあって、長い歴史があり、僕自身が曲と向かい合っても、確かに両方にそれなりの理由があるように感じられる。
オケの楽譜係の人からは、
「譜面を製本するにあたって曲順を知りたいのですが?」
という問い合わせが来ているのだが、返事をグズグズしている。
第1楽章の次にScherzoが来ると、冒頭の同じ音の連打も含めて、「また同じ音楽が始まった」という印象が強くなってしまうので、むしろアクティブな第1楽章の後で、安らぎに満ちたAndanteが来るのが自然で望ましいように見えるが、その一方で、全体のバランスに留意した場合、第1楽章とScherzoという似た音楽をあえて前半にまとめることで、静かなAndanteを真ん中にはさんで、長い最終楽章という、ややシンメトリカルなまとまりが得られる。
で、肝心な僕の判断だが、今ではほとんど第2楽章Andante、第3楽章Scherzoに傾いている。
年明けからの近況
年が明けてから、久し振りに新国立劇場で「こうもり」と「リゴレット」の音楽練習が始まり、「こうもり」は1月7日水曜日から立ち稽古に入った。週末はお休みで、明日からまた立ち稽古再開。
1月10日土曜日午前中は、東京バロック・スコラーズの練習。発声指導にバリトン歌手の大沼徹さんを招いて、僕もいつもより早く練習場に行って見学した。大沼さんを招いたきっかけは、昨年、僕が東響コーラスの「マタイ受難曲」の合唱指揮者を務めたときに遡る。大沼さんが発声指導した後に、僕が練習を受け継いで東響コーラスの第一声を出させた時の団員の発声の状態が明らかに良かったので、試しに当団にお呼びして見学させてもらった。
結論から言うと、予想を大きく超えてユニークかつ有益な発声練習だった。まず響きを集めるポイントを比較的上に決め、そこから力まずに声を出させている。大沼さんは、真面目な顔をしてさり気なく冗談を言うが、それに反応する団員の笑い顔も、発声練習のためには良く作用しているようにも思われる。
そして、その発声練習をした後の声の状態が、まさに東響コーラスの時と同じく、力みのない、それでいてきちんと響きを集めるポイントに入っている理想的な状態だったのである。
不思議な事に、そこに至るまでのプロセスの解明は、まだ僕にはできていない。しかしながら結果が結果なので、今後、土曜日の発声練習は、なるべく大沼さんを中心として行うことに決めた。で、僕も、その解明のために、彼が発声練習を担当する時には、朝早く家を出て見学するとしよう。
さて、昨日は、朝から出掛けて浜松に行き、午後、夜と、浜松バッハ研究会の「ヨハネ受難曲」の練習をした。午後に合唱練習。夜はオーケストラ練習。浜松の事は、もっと近づいて来たらまた述べよう。
「ヨハネ受難曲」を「マタイ受難曲」と比べて論じることは、あまり意味がないが、少なくとも「マタイ受難曲」よりも合唱の作り方は綿密でありかつ長い。それは、「マタイ受難曲」においては、合唱も物語の流れに組み込もうという意図が働いているせいなのだが、あらためて「ヨハネ受難曲」に取りかかってみると、合唱団にとっては「より歌い甲斐がある」ことになる。
僕は、今回もチェンバロで福音史家のレシタティーヴォやいくつかのアリアの伴奏をする。夜のオーケストラ練習で、コンティヌオ奏者と共に、弾き歌いをしてみたが、本番では歌う必要はないものの、休む暇がないね。
年を重ねてきて、しんどいという想いもないわけではないけれど、まあ、元気があって可能な限り、直接自分の手で受難の真実に迫っていくことは、自分に課せられた義務かも知れないなあと、思っている今日この頃です。
2026. 1.12
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