「こうもり」快進撃
新国立劇場首席合唱指揮者を昨年の3月いっぱいで退いて桂冠合唱指揮者になり、一度新国立劇場を離れて、二期会や六本木男声合唱団など、いろいろなところで仕事していた。
でも年明けからは久し振りに劇場に戻り、現在公演中の喜歌劇「こうもり」の合唱指揮を務め、次の「リゴレット」の準備も平行して進めている。
「こうもり」は、若い指揮者のダニエル・コーエンが、キビキビとしたテンポで東京交響楽団を牽引し、舞台上では、トーマス・ブロンデルのアイゼンシュタインをはじめとする芸達者なキャスト達が、ハジけた演技を繰り広げ、とても楽しいプロダクションに仕上がっている。
このオペレッタは年末にやることが多いが、年明けでもいいね。観ている人達に、今年が明るい年になるような気にさせる。ストーリーは本当に馬鹿馬鹿しくて、「仮面をつけたって、自分の奥さんが分からないはずはないだろう」とか、ツッコミどころ満載なんだけれど、聴衆は、ドイツ語のセリフというハードルを字幕によって乗り越えて、特に第2幕なんかは、会場から5分おきに爆笑の渦が起こっている。
合唱団も大健闘!歌うだけでなくアップテンポの踊りもこなさないといけないし、グループでのセリフもタイミングを逃したらいけない。まあ、全てがノリと勢いだから、楽しんでいれば自然に良い舞台となる。
ということで年明けから、古巣に戻って楽しい日々を過ごしています。
マーラー6番Scherzoの和声と出遭いの予感
地味に、マーラー作曲交響曲第6番のスコアを見ながら、ピアノでポツポツと弾いている。ここ2日ばかりはScherzoをつま弾いているのだが、驚く事にばかり遭遇する。音源を流して聴いているだけだと少しも不自然に聞こえないのだが、使われている和音の進行をピアノで弾いてみると、悪く言うとまるでデタラメ。良く言うと、従来の和声進行をあざ笑うかのように、実に独創的展開を見せている。
やはり天性というか、変人というか、もっと悪意を持って言い切ってしまうと、まさに変態!これに比べると、あの無調の扉を開いたといわれるワーグナー作曲「トリスタンとイゾルデ」の和声進行は、なんと保守的でアカデミックなのだろう。
前の第5番交響曲の演奏会のプログラムで、やはりScherzoのクラリネットの和声進行を独創的だと書いたし、このホームページでも事前に述べたが、第6番のScherzoは、そんな生易しいもんやあらへんで!(何故関西弁?)もう禁則の確信犯の道をまっしぐらですねん! しかし不思議だねえ!それでいて、ややヘンテコな感じはあるのだけれど、はっきり「禁則!」と言うほどの耳への違和感がないんだよね。

Mahler 第6交響曲 Scherzo
業(ぎょう)としてのスキー
1月21日水曜日、朝9時03分。僕は上越新幹線ガーラ湯沢駅に降り立った。年末年始は家族で安曇野にある絵本美術館「森のおうち」のコテージで過ごし、そこから毎日約一時間かけて、白馬五竜スキー場に車で通ったが、年が明けて東京に帰ってきてからは、先ほど述べたように、新国立劇場をはじめとして結構忙しい日々を送っていたので、スキーどころではなかったのだ。
「こうもり」の練習及び舞台稽古から本番までの日々に明け暮れ、20日火曜日に最後のオケ付き舞台稽古(再演の場合は、後で返し稽古をする可能性も考慮してゲネプロとは呼ばない)が無事終了し、22日木曜日が公演初日。その中日の21日がオフだったので、白馬以来初めてスキーをするためにここに来た。
さて、その日は、北陸地方全体に大雪注意報が出ていたので、ガーラ湯沢も当然雪が降っていた。だから余計、あたりの景色もあまり見えないので、自己の中に閉じこもって滑っているという意識が強かったのだろう。とはいえ、その内、雪もだんだん弱まり、時々雲の合間から陽が射す瞬間も出てきた。
ゲレンデは、残念ながら全面オープンという状態からはほど遠く、南斜面はむしろ全部クローズしていたし、僕の一番の楽しみな2.5kmを一気に降りる下山コースのファルコンも、下部の雪不足のためクローズしていたので、帰る時には下りのゴンドラに乗らなければならなかったのは、なんとも悲しかった。
スキーというのは不思議なスポーツだ。複数で滑ると、スキーの持つレジャー性が大いに発揮され、みんなでワイワイ楽しむことができる。ジュニア1級を取得している孫の杏樹と競争したり(時々負ける、ってゆーか負けてあげる)、その母親である志保と3人でゆったり滑ったり、スキーそのものが、言語を越えたコミュニケーションとなり、一緒に滑るだけで、互いの距離がとても縮まるのだ。しかしながら、今日のようにひとりで滑るとなると、それは突然全く違った意味を持つ。特に僕にとっては・・・。
僕は、スキーに対して「資格の取得」のようなものには全く興味がない。それよりも、このスポーツの持つ独特の「業(ぎょう)」という性質を愛する。あたりに広がる純白の世界は、他者との関係を一切絶ち、完全な孤独の中に自分をポツンと隔離する。だから否が応でも、自己と向き合うことを強要され、激しい運動量の一方で、意識はある種の瞑想状態にある。
不思議な事だが、その集中している意識においては、自分の運動はまさにスローモーションのように感じられるものである。これは恐らく、全ての優れたスポーツ選手も認識していることではないかと思われる。
たとえば卓球選手が相手の球を意識で捕らえ、
「よし、いけるぞ!」
と思って球に向かってスマッシュをかます瞬間とかには、相手の球が一瞬止まって見えることがあるとも言われる。
いうならば、「毎秒同じ速さで時が刻まれている」という感覚そのものが、逆に錯覚かもしれなくて、研ぎ澄まされた意識の中では、時間そのものが本当に延びたり縮んだりしているのかも知れない。
音楽家としての僕は、スポーツの世界とはまた違った意味で、音楽を演奏する時や聴いている時の“流動的時間”というものを結構日常的に感じている。特に演奏会の本番で指揮している時には、その感覚が鋭敏になっている。
16分音符を誰かが間違える。その瞬間、「あ、間違えた!」という違和感は感じるけれど、誰が何の音を間違えたのかは分からない。でも即座に聞こえた音の方向に意識がフォーカスすると、たとえばフルート奏者が2拍目の4つの16分音符の内の2つめのDbの音をDで吹いてしまったと分かる。それが僕には、記憶から来るのではなく、むしろ意識が、間違えた瞬間に時空を越えて戻っているのではないかとすら感じられる。
もっと不思議なのは、事前の予感で、
「あれ?もしかして、このホルン、入り損なうんじゃないか?」
と、ふと思う。それで、奏者の方を向いてアインザッツを与えて、相手が「おっと!」と気付いて大丈夫な場合もあるが、たいていはその予感の方が当たってしまう。
そんな感覚が音楽だけに起こるのかと思っていたら、スキーを始めてから、結構スキーでも起こることに気が付いた。音楽で怪我をして死ぬようなことはないけれど、スキーでは、オーバーに言うと“命の危険”と隣り合わせだから、身体の防衛本能が働いて、音楽よりもある意味もっと神経が鋭敏になっていて、超自然的状況に遭遇する可能性が高い。
午後からは、北斜面のオフピステ(非圧雪)地帯の、斜度33度、新雪&コブコースのスーパースワンに行った。今日は、残りの時間を全てこのゲレンデに捧げようと決心した。ほぼ上級者達しか行かないスーパースワンは、上から見て左の端にむき出しのコブがあり、反対に右半分は、ほぼ新雪なのだが、その新雪の下が元々コブだったのか新雪のまんまなのか良く分からない。
僕は、あまり人の行かない右半分の新雪のエリアに、自分専用のシュプールを作り、それを何度も滑ることでコブ・コースを作り上げ、それで練習台にしようと決心した。ところが、ここの新雪は曲者なのだ。前日までコブ斜面だったのが、一晩の新雪で全部埋まってしまったようだ。
だから、新雪だと思ってやや後傾で飛び込んだら、下のコブにハジかれて宙に浮いてしまうと思うと、逆に、コブがあるかなと予想して、重心を前にして飛び込むと、ただの深い新雪で、ザックリと前から埋まってしまい、板も外れて取り出すのに苦労した。こんな時こそ、さっき述べていた“予感”が働けばいいのに、そうはいかないんだよね。
でも、何度も滑る内に、だんだん新雪が自分のシュプールで踏み固められてきたので、滑れば滑るほど、滑り易くなってくる。自分の作ったシュプールは、良くも悪くも自分のクセを反映しているから、自分にとっては自然で滑り易い。それにコブ自体も新雪で和らげられているし、時々雪も降ったりやんだりしているので、新たに積もったりしている。
僕は何も考えずに夢中になって滑り続けた。リフトに一体何回乗ったのだろう?マイ・シュプールを何度滑ったのだろう。
「さて、あがろうか!」
と思った時は本当にクタクタで、中央エリアに再び出て、ジジというゲレンデを降りたときには、もう本当に足がガクガク!でも、それ故に、シーズン二回目にして、結構コブに慣れてきたぜ!
そういえば、お昼にレストランでメニューを見たら、新潟の蕎麦がおいしそうだったので、ヘルシーだから食べようかと思ったのだが、手が言うことをきかず、気が付いたら写真のように、新潟名物タレカツカレーを食べていた。ヤベエ! でもね、激しい運動の一日だから、ま、いっか!

新潟名物「タレカツカレー」