森のおうちと鈴江さんの詩

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

SF800快進撃と宗教曲の作曲
 5月16日土曜日。またまた聖フランシスコ800合唱団(以下SF800合唱団と呼ぶ)の練習に行く。今日はMissa pro Pace(平和のためのミサ曲)からKyrieとGloriaの練習。特にGloriaは結構難しい。このGloria後半では、僕は人生で初めて、きちんとしたフーガを書いた。でも、みなさん、本当によく取り組んでいる!頭が下がります!
 あらためて言うまでもないけれど、このSF800合唱団演奏会では、全作品が僕自身の自作宗教曲によるので、僕自身の思い入れには特別なものがある。

 僕は、たとえば作曲に関しては、音楽大学の作曲家卒業などという経歴は持っていない。和声学についてだけは島岡譲先生などについてきちんと勉強したが、それ以外はほとんど独学だ。僕が実際に作曲を始めたきっかけはミュージカルの仕事に携わったことによる。
 ベルリン芸術大学指揮科を卒業し、帰国した僕は、80年代後半から二期会を中心に、オペラの副指揮者として仕事し始めたのだけれど、その二期会から、
「ミュージカルだったら副指揮者ではなく指揮者として仕事できるけれど、やる気はありませんか?」
と誘われた。
 他の若い副指揮者たちは、芸大指揮科卒業生が多く、オペラの副指揮者すら出世の足掛かりくらいにしか考えていなかったから、誰もミュージカルなんて引き受けなかった。でも、僕は食べるために何でも引き受けた。その頃にはもう長女の志保も次女の杏奈も生まれていたからね。

 でも稽古場に行ってみたら、ミュージカルの現場は、予想をはるかに超えて面白かったのだ!ドラマが音楽という翼を得て表現の大空に飛翔していくことを体験し、僕はミュージカルの指揮者を務めるだけでなく、そこで甲斐正人さんをはじめとする作曲家の人達から、作曲のノウハウを教わったり密かに盗んだりして、自分で作曲の分野に手を染めて行く。
 それを本格的に発表したのは、群馬県新町に自分が組織した新町歌劇団による1991年初演のミュージカル「おにころ」である。これが予想をはるかに越えてヒットした。その後「おにころ」の何度にも渡る再演を繰り返しながら、「ナディーヌ」「愛はてしなく」など新作を発表していく間に、作曲技法を磨いていき、しだいにその技法を応用して宗教曲の方も習作を経て実際の作品を書き始めて行った。
 そのうち、その宗教曲を発表する機会を得た。男声合唱の東大コールアカデミーOB会であるアカデミカ・コールからの委嘱で作ったMissa pro Pace。そして「イタリア語による3つの祈り」だ。ただ当初は、それが、こうした聖フランシスコ没後800年に向かっているなどとは夢にも思わなかった。でもね、今から振り返ってみると、すでにこうした伏線は、あらかじめできていたのかも知れない。

 ところで皆さん、ひとつ訊きますが、フランシスコって名前はどういう意味だか分りますか?それはね「フランス人」という意味に過ぎないんだ。彼の父親ピエトロ(ペトロ)・ディ・ベルナルドーネは、毛織物商人で、フランスと取引していてフランスが大好きで、フランス人の奥さんを連れて来たので、本名は、父親の名前を含んだジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネなので、要するにジョヴァンニ(ヨハネ)なのだけれど、父親が好んでフランシスコと呼んでいたということだ。
 だから、聖フランシスコが聖人となる前には、当然ながらフランシスコと名乗る人はイタリアにはほとんどいなかったということである。イタリア語読みではフランチェスコと発音するべきなんだけどね。

 さて、SF800合唱団は、4月の頭に最初の練習を始めて、今5月の中旬なのに、演奏会の前半の2曲をすでにこなし、後半のミサ曲に入って、これだけ歌えているのが凄いと思う。まあ、考えてみれば初練習から演奏会本番まで半年もないわけだから、このペースで行かないとできないんだけれど、それでも僕には、夢の事も含めて、未だにこの経過に圧倒され続けている。
 とりわけ二人のSさんとの出遭いから今日までの絶えることのない関係には、全くもって神に感謝!いや、神様もそうだけど、二人自身には直接、どんなに感謝してもし足りない!ということで、あとは全力でやるっきゃない!

森のおうちと鈴江さんの詩
 昨日5月17日日曜日は、妻の車で、長野県安曇野にある絵本美術館&コテージ「森のおうち」に日帰りで行ってきた。森のおうちは僕たち家族の大好きなところで、昨年から今年にかけても、そこのコテージに3泊して、白馬五竜スキー場まで約1時間弱の道のりを車で毎日通ってスキーをした。
 だから白馬ほど遠くはないものの、家のすぐそばの国立インターから中央高速道路に乗って、たっぷり3時間以上かかる。でも、その道中は、出発して間もなく、雪を頂きに乗せ圧倒的な美しさで輝く富士山を正面に眺め、甲州に入ってからは、甲府市を軸に右に旋回しながら、中央アルプスや反対側の八ヶ岳を様々な角度から味わい、諏訪湖の青さを右の眼下に感じながらの、実に充実した新緑のドライブであった。

 その日は、鈴江昭(すずえ あきら)さんという人の詩の朗読会があった。親友の角皆優人(つのかい まさひと)君から誘われたのだが、失礼ながら僕は鈴江さんのことは全く存じ上げなかった。でも、角皆君が鈴江さんにとても傾倒しているようなので、この時期に森のおうちを訪ねるのもいいなと思って、朗読会に参加した。

 朗読は、以前この森のおうちで働いていた小林史(ふみ)さんが行った。ヘッドボイス(頭声)主体の柔らかく心地よい声で、それでいてしっかりした活舌で、ひとつひとつ丁寧に言葉を紡いでいく。それをピアニストの齋藤寧子さんがしなやかな響きで包み、彩っていく。森のおうち一階の窓からは、まだ柔らかい新緑が目に入ってきて、爽やかこのうえない。
 鈴江さんの朗読は、彼がここを訪れた際の「森のおうち」近辺をめぐる緑の印象を語った詩から始まった。「森の歌」「森の歌第2楽章」「森の歌第3楽章」・・・「安曇野よ」という風に。まさにその場で聞くことで、このシチュエーションでなければ誰も味わえない「稀有な体験」を一堂全員が味わったと思う。


森のおうち(写真提供 角皆優人様)

 鈴江さんのかつての本業は京都府の高校教師で、吹奏楽の指導に優れ、特にマーチング・バンドのかつての教え子たちが、今回もわざわざ京都から何人も駆けつけて来たというほど人望が厚いのである。
 朗読会は、この森のおうちにおいても、昨年に引き続き2回目だという。今回の朗読会は、その鈴江さんの「野道をゆく」という詩集のシリーズⅤということで、副題は「森のうた Songs of the Forests」である。

ファウストと重大発見!
難解といわれる「ファウスト」

 詩ということの話題からは逸れないのであるが、話題自体は、一度鈴江さんの話題から離れる。先週の「今日この頃」でも書いたとおり、現在僕はシューマンの「ファウストからの情景」という作品について解説するYoutubeを作ろうと思っているところだ。それでゲーテの「ファウスト」をあらためて読んでいるのだが、早くも行き詰まってしまった。

 恐らく「ファウスト」に何らかの形で触れて、
「それでは、一度原作を読んでみよう」
と決心して読み始めた方は、皆さん僕と同じ想いを抱き、同じ壁に突き当たるのではないだろうか。
 そうなのだ!この「ファウスト」という作品は、「若きウェルテルの悩み」などとは全く異なり、かなり手ごわいもので、ファウストをはじめ、マルガレーテやメフィストフェレスなどが活躍する第1部はまだしも、第2部に入るとすぐに読み進めるのが苦痛になって来る。
「完全に読み終えました!楽しかったです!」
という方がいらっしゃったら、僕は惜しみない拍手を送るだろう。

 そうして悶々としていたのだが、実はこの安曇野にくる直前の金曜日から土曜日あたりで、僕はひとつ重大発見をしたのだ。それは、要するに「今さらとも思うが・・・」ゲーテは元来小説家ではなく詩人なのだということである。
 ちょっと例を挙げよう。以下の文章は「ファウスト」全巻の最後の一文である。まずはぼんやりと眺めてくれればよいです。


Alles Vergängliche シラブル=6 -gängliche
Ist nur ein Gleichnis; 5      Gleichnis
Das Unzulängliche, 6 -längliche
Hier wird's Ereignis; 5      Ereignis
Das Unbeschreibliche, 6 -schreibliche
Hier ist's getan; 4      getan
Das Ewigweibliche 6 -weibliche
Zieht uns hinan. 4      hinan

 我々は、「詩」と聞くとまず何を思い描くだろう?おそらく、
「普通の文章とは違って、実質的な事柄や意味を伝達することを目的としているものではなく、何かひとつの情景や心理描写を表現する文章」
のような事がまず頭に浮かぶに違いない。
 勿論、その理解は間違いではない。でも、たとえばこのドイツ語詩を理解するために、全く違う角度から説明しようとすると、こんな風になる。
「シラブルがある意図によって固定され、頭韻、脚韻などによって完全にコントロールされた、ひとまとまりの文章」
 そうなのだ。意味内容に踏み込む以前の定義として、まず詩とは、
「文章における一種の遊び」
という大前提があるのだ。たとえば最初に、
「前半は6シラブルと5シラブルで行こう」
と計画し、脚韻(文章の終わり言葉を揃える)にしようと決心すると、第1行と第2行において、änglicheとnisを使ってしまったら、「純粋な意味としては別の単語の方がよりふさわしいのに・・・」と思っても、änglicheとnis以外で終わる言葉は使えないという制約があるのだ。それがすなわち「詩を作るテクニック」ということであり、
「よくまあ、これらの言葉を整然と並べられ、しかも意味がしっかり通っているなあ!」
と思ってもらえる作品が優れた詩である最低条件なのである。

ということは、言葉を変えて言うならば、
「詩というものは、ただ原語で味わう以外に、正しい理解に到達する道はない」
ということであり、言語システムの異なる別の言語に翻訳した時点で、その価値を全く失ってしまうことである。

 ただ、
「それを言っちゃあおしめーよ!」
ということで、全く先に進めなくなってしまうので、優れた詩については、少なくとも「何を言っているか?」くらいは知りたいですよね。次の項では、いくつかの有名な和訳を挙げさせてもらう。
 その前に、参考に、主要な単語の日本語の意味を載せておこう。これを参考に次の具体的な和訳に触れてみてください。

vergänglich (形容詞)  永続せずに過ぎ去る、うつろいやすい、つかの間の、はかない、無常の
Vergängliche (vergänglichの名詞形)  うつろいやすいこと、はかないこと、無常
Gleichnis (中性名詞)  比喩、たとえ、似姿、写し
unzulänglich (形容詞)  不十分な、不足な
Unzulängliche (unzulänglichの名詞形)  不十分であること、不足であること
Ereignis (中性名詞)  通常は「出来事、事件」という意味であるが、この場合はwerden(~となる)を伴って「~の結果となる」のような意味になり、さらにUnzulänglicheの後では、実現の意味を帯び、従って、「実現される」「満たされる」「なし遂げられる」となる。
Unbeschreiblich  言葉に表せないほどの、筆舌につくしがたい 名状(形容)しがたい
Das Ewigweibliche  後の相良守峯の解説を参照のこと

日本語訳の例
 いくつかの対訳を紹介するが、「ゲーテ『ファウスト』を深読みする」(名月堂書店)の著者仲正昌樹(なかまさまさき)氏の訳が内容的には一番素直かも知れない

仲正昌樹訳

Alles Vergängliche  すべて移ろい行くものは
Ist nur ein Gleichnis;  永遠なるものの比喩に過ぎず
Das Unzulängliche,  かつて満たされざりしもの
Hier wird's Ereignis;  今ここに満たさる
Das Unbeschreibliche,  名状すべからざるもの
Hier ist's getan;  ここに遂げられたり
Das Ewigweibliche  永遠にして女性的なるもの
Zieht uns hinan.  われらをして牽(ひ)きて昇らしむ

 次の粂川麻里生氏の訳は、漢字を意図的にいっさい使わず、全てひらがなの7シラブルに統一している。詩作の原点を踏まえて、ドイツ語とは別の方法で韻を踏んだりシラブルを揃えているので好感が持てるが、所詮日本語としての処理であり、ゲーテの原点とは違うワールドである。しかも、そのために短い単語ではめこまれた文章では意味を表現しきれない部分があり、初めての人に、全ての単語の意味が伝わるか疑問である。

粂川麻里生(くめかわ まりお)訳

Alles Vergängliche  うつろうものは
Ist nur ein Gleichnis;  すべてうつしえ
Das Unzulängliche,  いたらぬものも
Hier wird's Ereignis;  ここにあらわれ
Das Unbeschreibliche,  いいしれぬわざ
Hier ist's getan;  ここになされる
Das Ewigweibliche  とわのたおやめ
Zieht uns hinan.  われらみちびく

次に紹介する相良守峯(さがら もりお)氏は、いくつかの単語について御自分で巻末で説明している。
相良守峯(さがら もりお)訳

Alles Vergängliche  すべて無常のものは
Ist nur ein Gleichnis;  ただ映像にすぎず
Das Unzulängliche,  及び得ざるもの
Hier wird's Ereignis;  ここには実現され
Das Unbeschreibliche,  名状しがたきもの
Hier ist's getan;  ここには成し遂げられぬ
Das Ewigweibliche  永遠なる女性は
Zieht uns hinan.  われらを引きて昇らしむ
Gleichnisを映像と訳したことについて:
はかない感覚的な現実の世界は永遠なる理念ないしは絶対なる実在そのものでな くして、それの映像に過ぎない。
故にこの語Gleichnisを比喩もしくは象徴と訳してもよいわけであるが、これと 同じ意味の事を表現している4727行に、
「人生は、彩られた映像としてだけ掴めるのだ」
とあるので、それと調子を合わせて映像と訳しておいた。
(三澤注:それでも映像と訳してしまうと、やや離れてしまうかなあ。やはり比喩が近いかなあ・・・)
Hierを「ここには」と訳したことについて:
天上においてはの意。絶えず努め励んでも地上では及ばなかったことが、天上界では純粋な形で表現される。
名状しがたきもの:
努力しつつ迷う人間が救済されて天国にのぼるという、言葉では説き明しがたいことも、永遠の神の愛によって成就される。
永遠なる女性:
聖母マリアや、塵の世を離れて浄められたグレートヘンなどの女性によって代表される神的な永遠の愛を意味する。
このような、女性において現れている没我的な永遠なる愛が男性を救うという思想はゲーテが生涯持ち続けたのである。
なお、この語の言語
Das Ewig-Weiblicheのewigは、副詞でなく形容詞として解すべきだと思うので「永遠に女性なるもの」とせずに「永遠なる女性」と訳しておいた。
いずれにせよ、日本語では表現しにくい言葉である。

 さて、ゲーテは、「ファウスト」の中で、言語の扱いが、とても“厳格”であったり、逆に“緩かったり”という違いはあるものの、言葉を自由に扱う詩人ならではのアプローチでファウストのひとつひとつの文章を規定し、産み出していったことは紛れもない事実である。
 ということはつまり、もし、その緩さと厳格さにおけるフレキシブルなアプローチこそが「ファウスト」の独創性だとしたら、これを完全に理解することは、ドイツ人あるいはドイツ語を自由に読める人以外には「完全にお手上げ」ではないか。
 さらに、これを、どんなに素晴らしい訳だとしても、全然言語システムの異なる言語に翻訳して読んでも、本当の楽しさには決して到達しないわけだ。
う~~~ん・・・・詩の翻訳って何なのだ?

日本語の詩のワールド
 さて、こんなことを思っている時に、森のおうちで鈴江昭氏の詩に出遭って、またひとつの大きな発見をした。
「日本語の詩って、ほぼなんにも決まりがない!」
これは全身が震えるほどのショックであった。でも、思い出してみると、昔はあったね。

まだあげ染めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
(島崎藤村)

 この詩は、いわゆる七五調でシラブルが揃えられてあり、一節目と三節目は「前髪の」が「花櫛の」と「の」で統一されており、後半は「見えしとき」と「思ひけり」で、「き」と「り」の違いはあるが「い」行で統一されている。
 ただ現代ではあまり流行っていない。むしろそれは、特に現代日本の人々が、こうした制約をあまり詩に求めないからなのであろうか?

ちなみに、鈴江昭氏の詩集「野道をいく」の中のひとつの詩を(部分的ではあるが)紹介する。

     安曇野へ

立て込む日々の暮らし
ふうっと一息つくと
訪ねてみたい場所が
浮かぶ

西側に広がる北アルプスの
山脈からの水を
湧くように地中に湛えた
清涼感

安曇野

山脈の雪が解け
幾筋もの「流れ」を経て
この地中に運ばれている
清涼感

常念山系から下山して
柔らかく心をほぐしたのは

安曇野

etc.

 「ファウスト」と葛藤している真っ只中に、東京を離れ、鈴江氏の詩に出遭って、とても新鮮な日本語の詩のワールドに触れた。「立て込む日々の暮らし」をはじめとして、だいたい十文字くらいの文がみっつ続き、最後は三文字となる。しかし、二節目の「西側に広がる北アルプスの」は、もう十六文字であるし、それぞれ最後の節は三文字といっても、安曇野は読むと「あずみの」と四文字になる。このように、なんとなくのまとまりはあるが、厳密ではない。

 いや、僕は否定的な意味で言っているのではない。縛りは緩いけれど、これが散文ではないのは明白だ。日本人が読めば、10人中10人、間違いなくこれを詩であると認識する。この点が、先ほども言った「日本語の詩のワールド」に外ならない。それが、言葉遊びの厳密性を要求される西洋の詩との決定的な違いかも知れない。
 そして、もうひとつ重要な要素として、詩では「詩情」というものが要求されるのである。散文や小説のように、物語が発展して様々な事件が起こっていく面白さの代わりにあるのは、「感情にまで落し込まれた印象」といえようか。それが象徴的に選び抜かれた単語の組み合わせによって、作者が感じたものと同じような心象風景を読者に呼び起こす。
 同じところで同じような事を感じている同士であれば、それは初対面であっても、まるで古くからの親友であるかのごときシンパシーをお互い感じ合うことが可能なのだ。

 これを言ってしまうと元も子もないけれど、ゲーテの詩を理解しようとしたら、日本語に訳されたものなど読んでも、ほぼ何の役にも立たないように思うし、だったら、日本人は日本語の詩を味わった方が良いとさえ思う。逆に言えば、鈴江昭氏の詩は、どんなに上手に訳したとしても、我々日本人が日本語でそのまま受け取るようには、外国人には理解できないだろうな。
 つまり詩というものは、食品で言えば、現地に行って生のまま食べるのが一番おいしいのであって、冷凍食品にしたりしたらもう別のものになってしまうデリケートなものなんだね。

そんなことを思いながら、僕は今日もゲーテ「ファウスト」の原書に向かい合う。

2026. 5.18



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