マーラー第6番の濃い練習
三澤洋史
6番のダイナミックと独特の色
5月23日土曜日。10時から金山の音楽プラザで愛知MFオーケストラの練習。その日の早朝に東京から出てくることもできたのだけれど、やっぱり長時間マーラー交響曲第6番を集中力を切らさないで行うためには、あまり無理しない方がいいので、前の日に名古屋に来て、金山駅前で一泊した。
次の朝は6時起床。熱田神宮まで早朝散歩。いつも言っているけれど、僕はカトリック信者なのに神社が大好きで、特に早朝、神社にお参りすると、その日一日を晴々した気分で始めることができるし、物事がポジティブに進む。金山駅前から熱田神社までは、ちょうど往復約1時間の距離。いつもの早朝散歩と同じくらいなので負担感がない。

熱田神宮1

熱田神宮2
さて、その日の練習は、午前中いっぱい使って第4楽章のみをやり、午後に3楽章~2楽章。そして第1楽章と、逆の順番で行った。ようし第4楽章にたっぷり時間が取れるのだな、と安心して練習を始めたら、あっちこっち気になる所が出てきて、前半だけで時間を取り過ぎ、お昼近くになると、後半を通すだけの時間しか残されていなかった。勿論後半は、前半で出てきた楽想のリピートが多いのだけれど、調も違うし、新しい展開も多いので、止めたいのを我慢して突っ走る瞬間も少なくなかった。
次に名古屋を訪れる時は、6月27日土曜日と28日日曜日の2日間あるので、その時にもっと後半に時間をかけてしっかりやろう。でもなあ、第6交響曲は、第5交響曲よりも、もう一皮剥けて、なかなか手ごわいのだ。
何が手ごわいかというと、スコアを見るとすぐ分かるのだが、たとえば第4楽章冒頭から、同じ音を演奏しながらフルートとクラリネットはフォルテで、オーボエはピアニッシモ、その2オクターヴ下のファゴットはピアノ、という風に、ダイナミックの設定が独特なので、それを守らせるのに時間がかかってしまった。だって奏者にしてみれば、自分がピアニッシモに吹いている隣でフォルティッシモで吹いている人がいたら、ついつい大きくなってしまうではないか。
それは第5番まではなかったことだし、いろんな人の録音を聴いてもよく分からない。同じメロディを演奏しても、ヴァイオリンは最初からフォルティッシモに対して、フルートとクラリネットはピアノから入ってクレッシェンドって書いてあるので、結構僕もこだわって何度もやらせたのだけれど、結論から言いますと、このマーラーの試みはあまり成功していません。少なくとも目覚ましい効果というものは期待できないことが分かった。とはいえ、
「だったら全員でフォルテ!」
と決めちゃうのも作曲家に失礼でできないけれど・・・マーラー自身、この曲を1906年と1907年に指揮しているけれど、どう思ってたんだろう?僕と同じように効果的でないと気が付いたら普通のように書き換えただろうな。そうしていないところを見ると、プロだったらもっと効果的にできるんだろうか?う~~ん・・・よく分からない・・・。
そこに労力を使いすぎて疲れたので、午後はあまりこだわらないようにした。後ろの楽章から前に戻って行ったので、第3楽章のScherzoから始めた。第4楽章ほど顕著ではないのだが、同じようにダイナミックの差が楽器間で生じたが、少なくともそのために何度も止めるようなことはしないで、先に進めた。
するとね、顕著ではないながら、まあ、ちょっとは色が変わるのは感じる。特に弦楽器がずっとフォルテで、そこにホルンやトロンボーンがピアノで入ってただちにクレッシェンドをしてスフォルツァンド・ピアノ。またピアノからクレッシェンド・・・などの個所では、弦楽器の通しのフォルテに管楽器がちょっかいを出してくるのは感じる。ただね、驚くほどの効果でもないなあ。
それよりも、もっと目立たないところで、マーラーのオーケストレーションが確実に進化しているのを感じる。まあ、例のハンマー以外は、金管楽器だっていつものトランペットやトロンボーンなどの楽器に変化はないし、ホルンは8本と多いながら、基本的に出る音色は同じだけれど、音高の違いや組み合わせの違いで、全体の音色が変わるという、地味な変化に対して、指揮者マーラーが他の作曲家からも学んでいただろうし、プロとしての嗅覚も発達して、ひとつの独特なワールドが形成されつつある。
そういえば、随分昔の話だけれど、2011年にミラノに短期留学した時に、スカラ座のオーケストラにリッカルド・シャイーが来てマーラーの7番交響曲を演奏したけれど、その時初めて、7番の第2楽章や第4楽章の音色の独創性に感動した覚えがある。カウベルやギターを使用したということではなく、全体的に独特の色があったのだ。その萌芽が、この第6交響曲では芽生えているのをその日には感じた。
ヴィオラの人たちとの昼食
金山プラザの1階のカフェで昼食を取ったが、団員達から、
「今日は先生、ヴィオラの人たちと一緒にテーブルを囲んで食事を取ってもらえませんか?」
と言われて、喜んで一緒に食べた。第1ヴァイオリンなどと違って、ヴィオラを弾く人達って控え目な人達のように指揮者目線では思うが、実際にはそんなことはないよね。そんな風に勝手に見てはいけないよね。話し始めたら、食事の時間があっと過ぎるほど楽しいひとときでした。
練習が終わって、名古屋まで行き、新幹線に乗ったら、ホッとしながら意識がなくなって、もう次の瞬間、夢の中に新横浜に到着するチャイムと車内放送が割り込んできた。おっとっとっと・・・・理由はないんだけど、そんだけ練習は集中していたのかなと思ったら、なんだか嬉しくなってきたので、新幹線を降りたら崎陽軒のシュウマイをお土産に買って帰った。大きい包みを買ったのだけれど、冷蔵庫に入れて次の日のお昼にみんなで食べたら、孫の杏樹がひとりで半分くらい食べた。
シュタイナー著のゲーテ本
先週、シューマン作曲「ファウストからの情景」の勉強の話は書いた。どうせ勉強するなら、自分の得た知識などを独り占めしていないでYoutubeで発信しようと思っている、という事も言った。なので、もう今頃配信を始めたかと思っている読者も多いでしょう。
ところがね、まだまだ配信どころか、いろいろ資料を集めて吟味し始めたら面白くて、家の大掃除にたとえると、掃除を始めようと思って家の荷物を一度ひっくり返してみたら、忘れていた昔のあれやこれやが出てきて、そこに座りこんで、
「へえっ、なつかしい!」
と掃除がいっこうに始まらない状態に似ている。
特に今はね、昔のものではなくて最近新たに、ルドルフ・シュタイナーの書いた「ゲーテ 精神世界の先駆者」(西川隆範訳 出版社:アルテ)という本をAmazonで新たに取り寄せて、めっちゃ興奮して読んでいるところ。

ゲーテ 精神世界の先駆者
シュタイナーに関しては、現在はやや距離を置いて接しているが、一時期(特に90年代から2000年代の最初くらいまで)僕は彼の思想にかなり傾倒していた。日本人智学協会代表の高橋巌(いわお)氏の講演会にも通ったし、シュタイナーの考案した一種の舞踏である「オイリュトミー」における我が国の第一人者笠井叡(あきら)氏の公演のために何曲も作曲したし、自分でもオイリュトミーを踊っていた。
記憶に新しいところでは、一昨年の8月後半、日本を代表するオイリュトミスト達の集団が、多摩パルテノンと名古屋近郊の長久手で、オイリュトミー公演を行った際、オーケストラを指揮して参加していた。
そのシュタイナーは、そもそもゲーテ研究家として若い頃世に出た人だし、スイスのドルナッハに建てた人智学協会の本拠地をゲーテアヌムと名付けるほどゲーテに傾倒している。そうしたシュタイナーの書いたゲーテの本は、誰の本よりも面白い。この本の最後のところで、先週も紹介した「ファウスト」の最後の詩を西川隆範氏の訳であらためて読もう。
| Alles Vergängliche |
移ろいゆくものは、すべて |
| Ist nur ein Gleichnis; |
比喩にすぎない。 |
| Das Unzulängliche, |
達成されないものが、 |
| Hier wird's Ereignis; |
ここでは到達可能となる。 |
| Das Unbeschreibliche, |
筆舌に尽くせないものが、 |
| Hier ist's getan; |
ここで成し遂げられた。 |
| Das Ewigweibliche |
永遠に女性的なものが、 |
| Zieht uns hinan. |
私たちを上方に引いていく。 |
先週、いろんな人の訳を載せたけれど、結局、この西川隆範氏の訳が一番良いなと思う。素晴らしさが際立っているというより、一番飾り気がなくて素朴なんだ。Vergänglicheを相良守峯氏のようにあえて「無常のもの」と言い換えず、vergehen(行ってしまう、過ぎ去る)の過去分詞の名詞化として「移ろいゆくもの」と訳したのは適切だし(仲正昌樹氏と同じ)、Gleichnisは「うつしえ」でも「映像」でもなく「比喩」だ(これも仲正氏と同じ)。Unbeschreiblicheという単語の中にはschreiben(書く)という言葉が入っているので、「名状すべからざるもの」でも「いいしれぬ」でも意味的には間違いではないのだが、「筆舌に尽くせないもの」と、あえて“筆”という言葉を使ったのが気に入った。
さて、Das Ewigweibliche zieht uns hinanについての、シュタイナーからの説明は、まさに「我が意を得たり」である!そうなんだ!この事が分からないと、この文章の正しい日本語訳もできないのだ。難しい言葉ではないんだけどね。
(以下シュタイナー)
『ファウスト』の最後の言葉「永遠に女性的なもの」(Das Ewigweibliche zieht uns hinan)を、感覚界の女性に関連するものを意味している、というような陳腐な 理解はしなくなるでしょう。
永遠に女性的なるものというのは、精神界によって受精して透視的・魔術的な行為のなかで精神界と合生する心魂の力です。
永遠に女性的なものが各人のなかで受精するのです。それが人間を永遠の領域に引き上げます。永遠に女性的なものが精神界のなかに入っていく過程を、ゲーテ は『ファウスト』のなかで私たちに描いたのです。
物質界を見渡しましょう。目に映るものすべてのなかに、現実ではなく永遠なるものの比喩を見るとき、私たちは物質界を初めて正しく見るのです。
特にシュタイナーの後半の文章を読むと良く理解できる。先週も紹介した何人かの対訳の中で、僕自身、どうなんだろうなあ?と思っていた相良守峯(さがら もりお)氏が「永遠なる女性」と訳してしまったことが、「間違っていた」まではいかないにしても、やや読者を的外れな理解に導いてしまう可能性があった。やはり素直に「永遠に女性的なるもの」と訳すのが自然ですよね。
ちなみに相良氏は「永遠なる女性」と訳した理由について次のように書いていた。
永遠なる女性:
聖母マリアや、塵の世を離れて浄められたグレートヘンなどの女性によって代表される神的な永遠の愛を意味する。
このような、女性において現れている没我的な永遠なる愛が男性を救うという思想はゲーテが生涯持ち続けたのである。
なお、この語の言語
Das Ewig-Weiblicheのewigは、副詞でなく形容詞として解すべきだと思うので「永遠に女性なるもの」とせずに「永遠なる女性」と訳しておいた。
ここで僕が余計なことをつけ加えて、さらに皆さんが混乱する危険もあるかも知れないけど、シュタイナーが「永遠に女性的なものが各人のなかで受精する」と続けたことで、ゲーテの「永遠に女性的なもの」が、恐らく女性の持つ「産み出す能力」、あるいはさらに拡大解釈して「変容させる能力」の事を比喩的に差していると、シュタイナーは言いたいのだろう。
それに対して、相良氏の「女性において現れている没我的な永遠なる愛が
男性を救う」としてしまったら、話が現世的で小さくなってしまう気がする。
このシュタイナーの本を、もっと深く読まない内は、なかなかYoutubeまでに辿りつかないなあ。でも、この一週間の内に何か出しますよ。「『ファウストからの情景』勉強会・三澤洋史」みたいなタイトルで出すので、数日後に探してみてください。う~ん・・・でも・・・数日で出せるかなあ・・・?このシュタイナーの本も、もっとじっくりと深く読みたいし・・・。
まあ、二期会と読売日本交響楽団がセバスティアン・ヴァイグレの指揮で
「ファウストからの情景」を演奏するのは12月12日(土)及び13日(日)だから、まだまだ遠い先の話です。でも、歌手たちは、気の早い人は夏過ぎくらいから勉強し始めるだろう。ま、あわてずに自分で納得のいくものを作るのが先決だ。しかしながら、ゲーテというのは、突っ込み始めると奥が深いんだ。
今さら言うのもナンだけれど、ただの詩人などではないよ。
2026. 5.25