人間ドック
家族で、僕のこと抜きで、何やら話しているのを感じ、何を一体たくらんでいるのだろう?と思っていたら、ある時妻が突然言う。
「あなた、8月3日は月曜日で、ホームページの更新原稿を書く日だけど、できたら前の日の2日日曜日に原稿を書き上げちゃってくれない?1日は名古屋で演奏会だけど、2日は、予定入ってないでしょ。」
と言う。
「まあ、予定はないけど・・・なんで?」
すると、
「あのね、8月3日月曜日の9時15分に、立川の病院で『人間ドック』の予約を入れちゃったの。これはあたしというより、娘たちの強い希望というわけ。パパには、いつまでも元気でいてもらいたいという配慮よ。あなたは毎晩お酒も飲んでるし、年も年だから、知らないうちに悪い病気が進んでたりして、早く発見されなければ、助かるものも助からないかも知れないじゃない!」
まるで僕が、なにか悪い病気に侵されていると確信しているかのような言い方をする。今ならまだ助かる、って何だよ一体!・・・ただ、そう言われても、絶対に何もないと断定するだけの自信もあるわけではない。まあ、検査に行って、そこで「何もないです!元気です!」と言われたら、それはそれで安心できるからね。ま、行ってみるか!
ということで、今朝から立川相互ふれあいクリニックに行ってきた。健康診断はこれまでにも何度も行ったことはあるが、『人間ドック』というものは生まれて初めてだ。要するに健康診断の『全部乗せ』だね。
それは、事前に家に届けられた2日分の検便パックから始まり、当日は、まず身長体重を測り、それから体中を内から外から調べられた。レントゲン、内視鏡、MRIは勿論、視力検査に至るまで、上から下まで、あるいは体内まで全部調べたが、サクサクっと速いねえ!半日で済んだ。
ほとんど痛い目にも遭わなかったけれど、MRIだけは、ちょっとまいった。始まる前に、医師が、
「30分かかりますから我慢していてください」
と言われて、
「えっ?」
と思った。
通常なんて、MRIなんて数秒で終わるから何でもないじゃない。それがあの器械に体ごと閉じ込められて30分だよ。その閉そく感はハンパない!しかも、「飽きないように」という配慮なのか、変な不規則な機械音が、変化しながら続いている。
それだったら、演奏したばかりのマーラー交響曲第6番のAndante Moderatoや、第5番のAdagiettoのような静かで美しい曲をリクエストできるようにしてくれていたら、
「はい、終わりですよ!」
と言われても、むしろ、
「いや、まだもうちょっと・・・今いいところだから・・・」
と言って、全くストレスなしにいつまでもカプセルの中にいられるんだけどね。僕には音楽さえ与えておけばいいんだよ。分かってねえな!
それ以外には、内視鏡もゲロゲロならずに済んだし、痛い思いもほとんどなかったし、まあまあ順調に進んで終わった。昨晩の夕食以来何も食べていなかったため、その後飛び込んだレストランでのナポリタン・スパゲッティが夢のようにおいしく感じられた。
結果が出るまでに二週間くらいかかるというが、健康だといいな。
さあて、次に記事を書いた「マーラー第6交響曲」に関わっている間に、いろいろがたまっていた。というより、ひとつひとつ片付けていかないと、次にかかれない。9月に本番がある志木第九の会や、モーツァルト200合唱団などは、担当の人がいるから任せてられるけど、例の夢でお告げを受けて、強制的にやらなければならなくなった9月の「聖フランシスコ800合唱団演奏会」のアンサンブル奏者の、パート譜作成と送付などは、僕自身が手配しないといけない。今週中に全部片付けてしまおう!
マーラー第6交響曲無事終了
ようやく第4楽章のイ長調Pesanteという部分に入って来た。あと数分で全曲が終了する。ヴァイオリンとヴィオラが細かいアルペジオを上下に繰り返して音の絨毯を創りだすとトロンボーンやチェロ及びコントラバスなどの低音楽器がゆったりとしながらも、上行の大きい跳躍のフレーズを奏でる。一方、ホルンはなだらかな下降順次進行のメロディー。
これだけ込み入っているのに、雄大で癒しの雰囲気があたりに漂っている。最後はイ短調で終わるんだけど、その前にこの個所があるから救いがあるんだな。
一時間半というのは、交響曲としては長いが、いつもワーグナーの楽劇とか、果てしなく長い作品に関わって来た僕にとっては、
「ああ、もう終わってしまう!」
という感じだ。疲れは全く感じない。って、ゆーか、やっている間に、内からどんどん力が湧いてくる。もう一度冒頭から演奏してもいい感じ。
終わり3小節でフォルティッシモのTutti(全奏)を突然奏で、ディミヌエンドをしていくと、弦楽器ラのピッツィカートと大太鼓のピアノで全曲は静かに終了した。とうとう終わってしまった!かけがえのないひとときが・・・残念・・・。
すでにこの作品については、「今日この頃」でも何度も書いていてしつこいのだけれど、これが最後だから、まあ付き合ってください。
僕はマーラーという作曲家は大好きなのだけれど、交響曲第6番に対しては、これまである種の苦手意識を持っていた。というか、白状すると、決して短くない生涯全体を振り返っても、あまり聴いた事がなかった。だいたい「悲劇的」というサブタイトルが気に入らなかったからだ。
だから、昨年の第5交響曲の演奏会が終わった後、6番のスコアはすでに取り寄せて持っていたが、年末まで一度も開いた事がなかったと、すでに「今日この頃」でも書いていた。だからといって6番を通り越して7番に行くという選択肢は考えていなかったけれど・・・。
それでも、せっかくやるなら、自分の感性と共鳴するところを見つけ出し、しっかりと思い入れをもって演奏できなければ意味がないので、年が明けてから、ある時覚悟を持ってスコアを開いた。
すると・・・意外な事に、音楽が僕の心に抵抗なくスッと入って来る。
「あれ?・・・なんだ・・・予想していたのと全然違うぞ!」
とビックリした。
こうも思うんだ。もしかしたら、僕が年を重ねてきて、いろいろを受け入れるキャパシティーが育ってきたからかも知れない。人は、自分にとって大切なものにこだわっているほど、それとは反対のものを退ける傾向があるだろう。若い時には、そのこだわりの強さ故に、人を遠ざけたり敵を作ったりもした。それが、時を経る内に、まあ、テキトーになったという面もあるかもしれないけれど・・・対立も疲れるからね・・・アハハ・・・。
この曲の主人公(とどのつまりはマーラー自身)は、今自分を取り巻く環境を、決して「悲劇的」とも思っていないんだ。ましてや、
「僕は今、悲劇の真っ只中なんだ・・・」
などという甘ったれた自己陶酔に陥っていたりはしない。
第一楽章冒頭の表示のドイツ語Allegro energico, ma non troppo. Heftig, aber markig.を日本語に訳すと、「快活でエネルギッシュ、でも行き過ぎないように。激情的に、しかしながら、力強く」となる。特にmarkigという言葉は、この作品の理解にはとても重要なように思われる。「力強く」だけではなく、さらに「きびきびして」、「頑丈な」とか「がっしりとした」という意味があって、自分に降りかかって来る運命に対して、片時もひるんだりめげたりはしない。むしろ、
「来るなら来い!望むところだ!」
という感じだ。
第3楽章のScherzoでのWuchtigというドイツ語の意味は「重い、どっしりした、力いっぱいの、勢いのある」で、途中の音楽では、ユーモアも交えたりしながら、自分の人生をエンジョイしてる感もある。
とにかく、一見矛盾するようだけど、徹底的なポジティヴ人間である僕が描いた「闘争としての歌」が愛知県芸術劇場コンサートホールに響き渡った。実に楽しい演奏だった。オーケストラのメンバーもノリノリで、僕が導くよりも先に、彼らから出てくるオーラや表現力に僕自身圧倒される瞬間も少なくなかった。
少なくとも「悲劇的」というタイトルに頼っただけの通り一遍の演奏よりは、曲に内在する様々な表情を描き切れた気はする。
今この原稿を書きながら、
「ああ、終わっちゃった!でも楽しかったな。舞台裏のカウベル達も効果的だったし、ハンマーのドスンという音にも聴衆はビックリしたのではないかな?カウベルは、来年の第7交響曲でも活躍するんだ」
と、もう気持ちを切り替えて、来年のことを考えている自分がいる。

愛知MFオーケストラ マーラー第6交響曲 終演
(写真提供 高橋広様)