「マエストロ、私をスキーに連れてって」キャンプ

三澤洋史 

 「マエストロ、私をスキーに連れてって」キャンプは、長野県白馬五竜スキー場で行われ、講師は角皆優人(つのかい まさひと)ですが、白馬五竜フリースタイル・アカデミーの通常キャンプとは異なり、特別キャンプとして「音楽に関わる人」のためのキャンプです。


角皆優人(左) 三澤洋史(右)


キャンプの基本精神

「マエストロ、私をスキーに連れてって」キャンプの目的と参加条件
第一の条件
 「マエストロ、私をスキーに連れてって」キャンプ参加者の第一の条件は、
「スキーと音楽との両方に興味がある人」

 向かうべき目的は、
「音楽における様々な運動性を、スキーにおいて具体的に体感し、最終的にそれを自分の関わっている音楽に生かす」

演奏における重力及び遠心力の力学の導入
 そもそも、このキャンプを僕が行おうと思った動機に、「バロック音楽はコブだ」という僕のモットーがあります。特に、東京バロック・スコラーズなどで、バッハの音楽における「付点音符やタイで引き伸ばされた音型の音楽的処理」を説明する時、僕はいつも、スキーにおける加重と抜重を例にとって行っているのですから。
 西洋音楽史の中で、最もリズムが重視され、4拍子で言えば「強弱中強弱」といった拍感が演奏において求められ、フレージングよりもアーテュキレーションが優先されるバロック音楽においては、この世の物理的法則、すなわち重力や遠心力あるいは放物線運動というものを音楽の中に導入していかないと優れた演奏は望めません。それを学ぶために、最もふさわしいものをスポーツの中で探すとすれば、スキー以外にないのです。

 一方音楽の側から言えば、バロック音楽に限らす、音楽は普通の人が考えているよりずっとスポーツに近いと思います。ピアニストなどは使っている筋肉こそ局部的ですが、その高度な運動性と、個々の動きを無意識の領域に落とし込んだ末の認識力と、精妙な肉体のコントロール能力は、トップ・アスリートのそれと変わりません。
 あらゆるスポーツがそうであるように、音楽もそれぞれの領域で体幹と基本的フォームに向き合うことを余儀なくされます。その体幹やフォームからどのように枝葉を広げて、細部の表現をするための体の状態を作っていくのか、その意識化と無意識化がスムースに行えるかどうかが、最高の音楽家となるための条件となるのです。

フレージングとターン
 たとえば音楽におけるフレージングについて語ってみましょう。フレーズには様々なヴァリエーションがありますが、最も基本的なフレージングを挙げると、フレーズの導入はやや弱く、それから発展して伸びやかに、最後は「フレーズを納める」あるいは「仕上げる」という感覚でディミヌエンドして終わります。
 あるいは、そのフレーズがひとつのクライマックスを築いていく途中にある時には、クレッシェンドしたまま次のフレーズに渡すということもあります。フレーズは、作文で言う文章に相当します。全体とつながっているけれど、「ひとまとまり」として独立してもいるのです。

 これは、確実にスキーのターンで体感出来ます。音量をスピードに置き換えてみましょう。大事なことは、本当は音量の変化だけでなく、音圧や音色の変化も伴いますが、これも加重感及び抜重感として、スキーにそのまま置き換えられるのです。
 スキーのターンでは、その瞬間瞬間に自分の体に掛かってくる重力と遠心力とのせめぎ合いが体感出来ます。これを自由自在に操ることが出来るということが、すなわちひとつの音楽的フレージングという大枠の中で、細かく表情付けをするテクニックとなります。
 ターンの終わりから切り替えの瞬間の重心移動を意識化できる人は、音楽フレーズの仕上げと次のフレーズの開始をうまく行えるに違いありません。最近では、カービング・スキーにおいて、あまり抜重を意識しないようになどと言っている人がいますが、僕たちの行うキャンプでは、逆に極端に加重及び抜重を意識してもらいますし、それと連動したストック・ワークも意識してもらいます。つまり「メリハリ」とは何なのかが分からないと、「メリハリ」が付いていながら付いていないように滑らかにフレーズをつなげるというテクニックにもつながらないからです。

 それと、これも最近のカービング・ターンの内傾志向とは真逆になりますが、徹底した外向傾を習得することにより、コブを含むあらゆる条件のゲレンデにおけるスピード・コントロールを習得します。要は、書道家が大きく太い筆でダイナミックに字を書くと思えば、細い筆でデリケートに描く、その両方を徹底的に学ぶのです。コブでも新雪でも荒れ地でも、それに尽きますから。
 スピード・コントロールという言葉は、ブレーキだけの意味ではありません。むしろ、いつでもブレーキをかけられるという安心感のもとに、意のままに加速のテクニックを養えるということも意味します。そうして、結果的にターンを美しく仕上げ、シュプールも美しく「音楽的に」描くのです!

 スキーにおけるターンの精度の高さを音楽に生かしている名手が世界に1名だけいます。それは指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンその人です。カラヤンがどんな風に具体的に滑っていたかを見ることは出来ないのですが、見なくても分かります。まさに彼の音楽のように滑っていることは間違いない。
 長いゲレンデをペース配分しながら、ここぞというところでクライマックスを設定し、自己のベストタイムを目指すアスリートの構築性が、彼のシンフォニーの作り方にも見られますから。

美しい音楽を行うためにスキーを利用
 「スキーが出来ないと美しい音楽は出来ない」などと極論を言うつもりはありませんが、その反対はあり得ます。すなわち「美しい音楽を行うために、スキーを利用する」ということです。これこそが今回のキャンプの目的なのです。

 プロの声楽家でさえ、輝かしい声を持っていながらフレージングが全く描けない人がいます。恐らくその人は、スキーをやっても、完結したターンひとつ描けないでしょう。逆に言えば、そんな人でも、スキーのターンの精度が上がれば、ほぼ自動的にフレージングが学べるかも知れません。

 一見無謀な理論ですが、スキーと音楽と両方に精通しているインストラクターが適切に指導すれば、間違いなく可能なのです。ちょっとオーバーに言ってしまえば、レッスンの中でターンを直し、
「ほら、今のように音楽のフレーズも構築すればいいんだよ」
と言ってくれるインストラクターが世の中に一人でもいたら、音楽の世界には革命が起きます。
 角皆優人君も、
「カラオケを聴けば、その人のスキーが分かる」
と言っています。表現は違いますが、言っていることは同じです。

音楽における迷妄を打破する
 僕が、何故ここまでスキーにのめり込んだのかというと、スキーで習得したことが全て音楽に導入出来ることに気が付いたからです。一方、音楽の世界では、時々不可解なことが起こっています。たとえば、指揮の技法という中にも沢山の偽物が混入しています。
 分かりにくく指揮することを、
「曰く言いがたし」
という風に、何かありがたい深遠なものが内在しているように信じながら行っている人がいます。またそれを礼賛している人も‥‥。
 昔は、僕もそうなのかなと思っていた時期がありました。でも、最近になって、スキーや水泳などを人に習うようになってみると、こうした結果のはっきり分かるスポーツの世界でクリアになっている体幹、フォーム、テクニックというものこそ全てであって、そうでないものが全て偽物であることが理解できるようになったのです。
 すなわち、自分の中にどんな音楽を構築したいかというイデーを持つこと、それをどのような方法で現実化させるか、これに尽きるのです。指揮のメソードというと、有名な斉藤秀雄メソードというものがありますが、これはオーケストラを合わせるだけの、いわゆる処世術のようなもので、それぞれの音楽性から導き出されたニュアンスを充分に表現するには至らないのです。やはり個人的に自分のめざす表現に合ったフォームを構築し、それが出来たらもうブレてはいけないのです。

 スキーのお陰で、僕は芸術の“精神性という闇”に隠れている迷妄から脱却することが出来ました。精神性というと、たとえば往年の指揮者フルトヴェングラーの指揮を「分かりにくい」と言う人が多いし、「それは精神性を表現しているからだ」と言う人も多い。しかし、どちらも違います。
 よく見ると、フルトヴェングラーの指揮は、確かに曲の開始では一般の指揮のようには分かり易くない。でも、それは日本の古武道、たとえば相撲の立ち会いのようにひとりひとりの気で自主的に開始させようとするものだからです。しかし一度始まってしまうと、むしろ彼の指揮はとても分かり易いのです。
 それに、彼の音楽を“精神性”ということで語るのは間違いでしょう。それを語るならば、ジャズのように“音楽の即興性”から語るべきです。こうした迷妄や誤解が音楽界の中にまかり通っているのです。
 僕は音楽の中に表現される精神性を信じていないわけではありません。逆に、音楽の中のどの瞬間にどのように精神性が宿り表現されているのか、ということについては、むしろ昔と違ってとてもクリアに分かるようになってきました。
 むしろ僕は、みんながよく分からないものをよく分からないということでいたずらに神格化し、ありがたがって礼賛し、それを“精神性”という言葉で誤魔化すのが許せないのです。その霧のようなものを、スポーツで追い払いたいのです。

 ということで、言うなればこのキャンプは、
「音楽に関わる人のための、音楽的なキャンプ」
なのです。僕は、このキャンプをきっかけにして、音楽とスキーとの間に橋を架けたいのですから。

Like a bridge over troubled water
I will lay me down
濁流(迷妄)の川に架かる橋のように
僕が身を横たえてあげるよ


白馬でお会いしましょう

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