大地の歌「告別」対決

三澤洋史 

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 現在僕は10月8日の名古屋での「大地の歌」演奏会に向かって準備の真っ最中だ。マーラーを勉強していると、自分の意識の皮がむけていって、魂が軽くなり、だんだんこの世とあの世との境目がなくなってくるのを感じる。最初は、マーラーに関わっていたら「死ぬんじゃないか?」と思って怯えもしたが、今では「別に死んでもいいや。どうせいつかは死ぬんだから。」と思えてきた。今はそんな自分自身がむしろ怖い。
 またマーラーの世界に生きていると、“神様”というものの認識が、バッハやベートーヴェンの音楽の世界であらわされているように、強い意志を持って努力して高みをめざしたその先に存在するものではなく、そのままで、大自然の花の香りの中や、木々のそよぎの中や、鳥たちのさえずりの中や、夕暮れ時の紅に染まった大空の中に存在しているような気がしてくる。だからといってマーラーの音楽が自然を描写しているわけではない。そんなこざかしいことではない。マーラーの音楽は“自然そのもの”が音楽化されたものであり、自然あるいは宇宙の命の根源から直接もたらされた音のメッセージなのである。つまり彼岸からもたらされたものなのだ。

 マーラーの音楽の中に混沌があるとすれば、それは自然の一見無秩序に見える秩序である。咲き乱れる花がシンメトリーに並んでいたら趣がない。自由に見えて、ある内的な秩序に従って色彩的にあるいは形状的に並べられるからこそ風流である。これは東洋の美意識である。
 マーラーの汎神論的な表現は、きっと当時の西洋人達を随分困らせたに違いない。特に、この東洋詩を題材とした「大地の歌」は、意識を積み上げて認識に至ろうとする欧米人にとっては、それを完全に拒否するような作品で、単なるペシミズムを遠く超えた、殺伐とした魂のアナーキーな状態と映っただろう。

 さて、僕は今「大地の歌」に首までどっぷり浸かっている。いくつかのCDからi-Podへファイルを入れていろんなテンポやいろんなバランスの演奏を代わる代わる聴いている。その全てについて語ることも出来るが、そんなことをしている間に演奏会が終わってしまう。僕は音楽評論家でもなければ学者でもないので、聞き比べするのが目的ではない。でも、聞き比べしていると当然いろんなことを感じる。今日は終曲「告別」を中心に、それらをつれづれなるままに語ってみようと思う。

ブルーノ・ワルター、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 何かというと参考にしたのは、やはりこの作品を初演したブルーノ・ワルターの指揮した演奏だ。ワルターは、マーラーの弟子でもあり、マーラーからの信頼もとても厚かったそうなので、これをマーラー演奏のある意味原型と僕は捉えて、自分がここをどうしようかなと迷うと、まずはワルターの演奏を聴いてみた。

 たとえば「告別」の練習番号22番。フルート・ソロとアルト・ソロのデュエットで、Ich harre sein zum letzten Lebewohlというところは、フルートの六連符の頭から歌が入るやり方と、八分休符を入れて後から入るやり方の二通りある。言葉のアクセントからすると後のやり方の方がいいと思っていたのだが、音符は一緒に入るように書いてあるのだ。
 そこでワルターを聴いてみたら、やっぱり後から入っていた。これだけで、なんとなく後ろめたさがなくなり、自信を持って演奏できるのだ。
 27番に入る直前、アルトがIch sehne michとアウフタクト付きで入るところで、ほとんどの指揮者がリタルダンドをしている。楽譜には何も書いていない。僕もリタルダンドしたいなと思って、やはりワルターを聴く。ホッ、よかったリタルダンドしているぜ。
 30番から31番にかけて、いろんな拍子が同時進行していて、しかもテンポがだんだんゆるやかになっていくのに大きく一つ振りしか出来ないところがある。ここは難しいなあと悩んでいたら、ワルター版ではグチャグチャ。ああ、嬉しい。

 ワルター版のテンポは総じてあっさりめだ。それにかなり楽譜の指示に忠実で、現在いろんな演奏で当たり前のようにやられていることをほとんどやっていない。それでいてカンタービレは情感たっぷりに歌うし、マーラーの意図するところは真っ直ぐに伝えてくれる。何のてらいもなく、本当に真摯にマーラーの音楽に向かい合っているのが胸を打つ。

 ただ僕にはひとつだけ苦手なものがある。カスリーン・フェリアーの歌だ。彼女が全力投球しているのは分かるし、感動的な歌なのも分かる。でもファンには申し訳ないが、あのチリメン・ヴィブラートだけはどうもいただけない。シャンソンのピアフなんかだったら許せるんだけどな。それに高音のテクニックが悪く、支えがなくて落ち着かない。静かで瞑想的なところでも熱唱、絶叫になってしまって、そのためにかなり曲想が変わっちゃっているのが残念だ。
 ワルターはチェレスタが出てくる最後の部分でも、わりとあっさりしたテンポで終わっている。でもそれでいて物足りなさはない。永遠に回帰していく感じは充分に伝わっている。そうか、遅ければいいというものでもないんだなと、かなり勉強になった。
 ワルターには他にニューヨーク・フィルとかの演奏もあるようだが、今はこれ一枚あればいいや。別にコレクターではないしね。

クレンペラー、ニューフィルハーモニー管弦楽団
 もうひとつの名盤と呼ばれる、このクレンペラー版。若くして急逝したフリッツ・ヴンダーリッヒのテノールと、まだみずみずしいクリスタ・ルートヴィッヒの二人が良い。
 ルートヴィッヒは情感に溢れつつ、抑制するところはきちんと知性を持って歌う。テクニックもしっかりしていて、僕的に言うと、先ほどのカスリーン・フェリアーに対する不満を全て解消してくれる。「告別」を歌う女性歌手の中では、僕は最も買うな。
 そしてルートヴィッヒの数あるこの曲の歌唱の中でも、恐らく一番良いのではないか。古いレコード棚からバーンスタインがイスラエル・フィルを振ったのが出てきたが、その年取って変な余裕が出てきた演奏よりもはるかに直截的でストレートに胸を打つのだ。

 クレンペラーのマーラーに対する気持ちの流出も並々ならぬものがある。何より古い録音ながら録音状態がとても良いのが嬉しい。ただ、録音データを見るとかなり余裕を持って録音しているにもかかわらず、オーケストラのアンサンブルの完成度が低い。
 「告別」の練習番号6番のクラリネット奏者がC音を吹くべき所をD音で間違えているのにそのまま入っているし、最後の一番良いところ、アルトのewig・・・ewig・・・とからむマンドリンが一小節前にずれたままずっといってしまう。コンビを組んで演奏している二人のハープ奏者が困りながら遅れてついていくのが笑える。なんとも気の毒だ。 マンドリン奏者は途中で気がつくが、最後の一発は逆に入り損ねて、ハープと一緒のはずが、ハープに先に入られてしまった。あわててどこでもない中途半端なところで自信なくポンと弾いておしまい。いくらマーラーがはっきり入るのを嫌ってイレギュラーな音符を書いたからって、これはないだろうと僕はちょっと怒ってるね。なんで撮り直さなかったんだろう。まさか気がついてないなんてことはないだろうね。

バーンスタイン、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 これは、僕の「大地の歌」初体験の演奏。高校時代に親友の角皆優人君からレコードを借りて聴いた。いろいろ聴いてみたけど、やっぱりここに戻ってきてしまう。だから今度の演奏会、僕の音楽の作り方はバーンスタインに似ているかも知れない。

 バーンスタインはところどころ作曲家の指示を無視して勝手な音楽を作る。恐らくワルターのように作曲家が生きていて直接指導なんか受けていたらこうは出来なかったろう。でも結果的に見ると、誰よりもマーラーの本質を突いているんだ。
 話は違うけれど、先日広島で三枝成彰氏の「川よとわに美しく」を指揮したけれど、僕はね、今でも僕のテンポでやった方がもっと三枝さんの意図に結果的に近かったのではないかと思っている。でも作曲家がそばにいて「もっと速く」って言うんだもの仕方がないや。とはいいながら、本番だけそれとなく自分のテンポに近づけてしまったから、僕は満足だけどね。と、こんな風に、演奏者は時に作曲家の指示を無視して、作曲家自身でも気付かない作品の本質を探り当てることもあるのだ。えへへ。

 「告別」では、なんと言ってもフィッシャー・ディスカウが素晴らしい。オーケストラが長い間奏を演奏した後にEr sprachとつぶやくところがある。ここは作曲家自身によってtonlos「声なしで」と書かれているが、これを忠実にささやくように歌ってくれたのは彼だけだ。いや、訂正しよう。フィッシャー・ディスカウと、今度の演奏会で歌う三輪陽子さんの二人だけだ。
 先ほども書いたけれど、バーンスタインにはもうひとつの録音がある。イスラエル・フィルを指揮した演奏で、ルネ・コロとルードヴィッヒがソリストである。こちらの方がずっと新しいはずなのに、録音状態があまり良くないし、演奏もいまひとつ覇気がない。唯一感心したのは、アルト・ソロとからむフルート・ソロの音色が、どことなく横笛っぽくて、東洋風の雰囲気が漂っていた。

その他の演奏

レヴァイン
 レヴァインの演奏は悪くないのだが、あまりにジェシー・ノーマンを前面に出しすぎた録音バランスは、この音楽の本質を損ねている。オペラじゃないんだから、歌手さえ目立てばいいってもんじゃないでしょう。マーラーでは歌声だけでなく、全ての楽器がきちんと聞こえないと駄目なんだ。歌手は、時にもぐりがちでもいい。むしろオーケストラの響きに包まれながら歌ってこそマーラーの世界よ。そんなことも分からないような奴はミキサーになんかなるなよと言いたいし、レヴァインも自分の指揮した演奏にもちっと責任持ったらと言いたくなったよ。

テンシュテット
 テンシュテットの「大地の歌」はちょっと期待して聴いたのだが、かなり失望。第一楽章からもったりしていて、静かな第二楽章では反対にせわしない。「告別」ときたら間が抜けてて話にならん。大体テンシュテットの演奏ってそういうの多いよな。この人って本当に良い指揮者なのでしょうか?誰か教えて!

クーベリック
 演奏は悪くない。この人はオーケストラのバランス感覚が抜群。ただ、こういう作品は第一番をはじめとする番号付き交響曲の評価とは違うね。僕はクーベリックの第一番の二楽章なんかゾクゾクするほど好きなんだけど、「大地の歌」では、聴き終わった時に、
「で、なんなの?」
と言いたくなってしまった。
 アルトのジャネット・ベーカーは、うまいという感じはしないのだけれど、一生懸命なのが好感が持てる。ただ感動まではいかない。
 バイエルン放送交響楽団は上手。でも、上手だけじゃ物足りないんだよなあ・・・・。

言ってることとやってることが・・・
 しかし、自分がこれから演奏するって言うのに好き勝手書いてるね。これって絶対に演奏前に読んでもらわなければいけないかもよ。演奏直後、深く自己反省した僕が、
「こんなi-Pod actuelle抹殺うううううー!」
と言い兼ねません。

 それにしても聴く側に立つと、「大地の歌」は本当に難しいんだね。人の演奏を聴けば聴くほど、じゃあ自分はどうなのかよ、と刃物を突き立てられている気分になってくるよ。みんなそれぞれ立派な指揮者の立派な演奏なのに、聴く方の期待度が高すぎるんだ。

 音楽評論家のこういう記事はあるけれど、演奏者自身のしかも演奏直前のこうした記事というのはないでしょう。だから今回はあえて書いてみた。
 僕も自分の好みであくまで主観的に書いてみたので、みなさんも気楽に読んで下さい。間違っても演奏会に来て、
「言ってることとやってることが違うじゃねえの。」
とは言わないでね。

2006.10.4




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