僕のi-Pod
今僕のi-Podに入っている曲を列挙してみる。
バッハ作曲 | 「小ミサ曲ト短調」が二種類 ミッシェル・コルボとヘレヴェッヘ |
プーランク作曲 | 「聖フランシスコの四つの祈り」が二種類 チャーリー・パーカー・オン・ダイヤルからNO.3 |
|
モーツアルト作曲 | ヴァイオリン協奏曲第五番 グリュミオーの演奏 |
|
ショパン作曲 | ピアノ協奏曲第二番が二種類 アシュケナージの若い頃の演奏とツィメルマンの弾き降りした演奏 |
曲の構造
この協奏曲をショパンはわずか19歳の時に作曲したというから驚きだ。彼はその作風をベルカント・オペラの巨匠ベッリーニから影響を受けたというが、よく分かるな。ショパンの曲の構造というのは実は簡単なのだ。つまり、メロディーとそれを支える伴奏が基本なのだ。美しいメロディーを作り出し、これを発展させる。論理ではなく、あくまで感性を指針として。
だから第一楽章がソナタ形式と言っても、展開部はほとんど自由にファンタジックに発展しているに過ぎない。同時にピアノ技巧を極限まで追求している。オーケストレーションが弱いとかよく言われるが、僕はそうは思わない。オケの書き方は悪くないし、よく鳴っている。ただ興味の中心があくまでピアノなので、オケの部分に欲がないのだ。だからオケをちっとも活躍させてくれない。
第一楽章なども、独奏ピアノが出てくるまでの主題提示部はそれなりに長いんだけど、一度ソロが始まってしまうと、あとは弦楽器の長い音符がソロに追従するばかりで、管弦楽が独立して自らを主張する場面は極端に少ない。結尾もソロが終了してしまうと、後はもう用はないと言わんばかりにあっさり終わってしまう。
対位法やシンフォニックな立体的構築性は望むべくもない。この辺が、同じようにピアニストとして出発しピアノ協奏曲を書き、後に大規模な管弦楽作品に向かっていったシューマンと決定的に違うところだ。もっとも、シューマンもピアノ協奏曲では別にそんなに堅固な構築性を披露しているわけではないけど。むしろシューマン場合、ピアノ・パートでの屈折した対位法的書法が、ショパンの“イニシアティブを取るメロディーと追従する伴奏”という明解な手法と対比されるところだな。
僕がこう言うと、読者はとても飛躍を感じるだろうが、今僕のi-Podには、このピアノ協奏曲と共に、モダン・ジャズの創始者の一人である偉大なるアルト・サックス奏者チャーリー・パーカーの演奏が入っている。ショパンを聴いた後、たいてい僕はパーカーの演奏を聴きたくなる。パーカーのアドリブとショパンの装飾音とはとても共通性があるからなのだ。いや、装飾音だけでなくショパンの速いパッセージの作り方は、まさにパーカーのアドリブの世界だ。ひとつの和音からどのように美しいメロディーを紡ぎ出すか。ショパンは譜面に書き、パーカーは即興演奏の中でそれを為し得たが、意外とこの二人の見ていた世界は近かったと僕は確信している。
ジャズは、音楽のある一面のみを拡大して発展させたものだ。そのひとつに和声からメロディーを紡ぎ出す行為があるとしたら、伴奏と美しいメロディで成り立っているショパンの音楽は、まさに美しいアドリブをするためのガイドたり得る。それにしても、ショパンを聴きながらこんなことを考えている僕って、やっぱり変?
僕が何故ピアノ部分を何度も練習していたかというと、ショパンの“拍から離れた装飾音”に慣れないと追いかけるのが大変だからだ。待っている内に先に行かれてしまって、オットットットと追いかけるのも格好悪いし、反対に見切り発車して指揮者だけが先に入ってしまうのももっと格好悪い。オケのメンバーがソロを聴いてて、ピアノに合わせて正しく入って、指揮者だけが独りぼっち取り残されなんてなったら最低だね。だから聴衆の立場からは、ただ美しさに酔っていさえすればいいんだけれど、指揮者というのはなかなか苦労が多いんだよ。
第二楽章
この協奏曲の素晴らしさは、なんといっても第二楽章の美しさにつきるだろう。ショパンは、その時恋いこがれていた初恋の人コンスタンツィア・グラドコフスカへの想いを曲に託したというが、僕はショパンの凄さというのは、こうした個人的感情を他人が共感する普遍的感情に高めたところにあると思う。ショパンの深い憂愁は、実は万人が心の奥底で抱えているメランコリー。それを彼は代弁して表現してくれた。だからショパンの音楽には単なるセンチメンタリズムを超えたリアリズムがあるのだ。まあ、それにしてもセンチメンタルだけど。
ここでも装飾音が縦横に活躍する。本当にこの曲は装飾音が多いなあ。でもきれいだなあ。メランコニックだなあ。いわゆるひとつのロマン派に咲いた大輪の花だなあ。中間部の弦楽器のトレモロに乗った両手のユニゾンも、緊張感を孕んでとても独創的だと思う。
第三楽章
第三楽章は、最初始まった時はその優雅な主題によって速めのワルツかなと思わせるが、しだいに民族色を高めていって、ああ、これはマズルカだったのかと気付かされる。その後マズルカからも離れ、クラコヴィアクという舞曲が持つ独特の音型とリズムとに支配される。これはまだパリの音楽ではなくポーランドの血なのだ。
ヘ短調の曲が、同主調であるヘ長調の上につけられたフェルマータによって一度止まり、ホルンのファンファーレの合図と共にヘ長調のコーダに突入する。この明るいコーダに、それまでの曲調からの違和感を感じ、蛇足だと言っている学者もいるようだが、あまりににも初恋とか失恋とかいうプライベートな事柄に囚われ過ぎた結果ではないかと僕には思われる。曲はあくまで曲自身の持つ生命によって評価されるべきだ。僕には、最後に解き放たれ、自由な世界に飛翔していく作曲家の魂が見えるよ。
ツィメルマン
i-Podには最初、アシュケナージが若い頃デイヴィッド・ジンマン指揮のロンドン交響楽団と共演したものが入っていた。僕が思うにこれはアシュケナージの数ある演奏の中でも最も素晴らしいものに属する。完璧なテクニックとそのリリシズム。特に細部の感情に溺れすぎないバランス感覚が素晴らしい。彼が後に指揮者になるのもうなずける。
それに比べると、次に買ったポーランド・フェスティバル・オーケストラを弾き振りしたクリスティアン・ツィメルマンの演奏は、期待していただけに正直言って失望した。日本語版ジャケットでの絶賛評がいけない。これを聴いてしまったらもう他の演奏は聴けないだって。もう、なんとかしてくれえ。ああいう客観性を欠いた批評家を批評してくれる批評家っていないかねえ。
まず最初のオーケストラによる主題提示部がいけない。何がいけないかというと、普通指揮者はソリストを浮き立たせるために、提示部はわざと素っ気なくやるものだ。それがソリストが指揮者でもある場合、ピアノ・ソロを演奏するのと同じ気持ちでテンポを動かしたりダイナミックをいじったりしてゴテゴテにやるものだから、ピアノが入ってくる前にすでに聴いている方に食傷気味にさせてしまっている。
こういうところがプロじゃないんだ。ツィメルマンは要するにピアニストでありながら、自分のピアノを最も良く聴いてもらうための努力を放棄してしまっている。間奏や後奏のオケの処理も同様。
とにかくピアノもオケもどこもかしこもテンポを動かし過ぎ、変な表情をつけ過ぎで、聴衆は作品にのめり込むどころかすっかり冷めてしまう。まあ、僕のように勉強の材料として使う場合、超オーソドックスなアシュケナージと極端なツィメルマンの両方を持っていれば、他の全ての演奏は大体この中に入っているだろうということで、かえって便利だけどね。
ただツィメルマンのピアニストとしての腕に関して言えば、これは完全に切り離して考えなければいけない。つまり、実に素晴らしいのひとことにつきるのだよ。特に第三楽章の真ん中あたりで左手がメロディーを弾くところの右手の処理なんて、まさに超絶技巧だ。 アシュケナージの場合、左手のメロディーを強調し過ぎて、この右手の存在感が薄くなってしまっているのが残念だ。
このCD(Deutsche Grammophon289 459
684-2)は、ピアノ協奏曲第一番と第二番ということで売り出されているんだけど、二枚組でそれぞれ一曲ずつ一枚のCDに収まっている。そのため、音質はとても良い。特にピアノ・ソロの音はなかなかここまできれいに録れない。
さあ、そろそろこの曲の勉強を一度切り上げて、メイン・ディッシュに取りかからなくちゃ。