マイルス・デイビス・コーナー

三澤洋史 

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いつか王子様が
 僕はこの邦題が好きだ。原題のSomeday My Prince Will comeは「いつの日か私の王子様が来てくれるでしょう。」で、西洋人というのは、全部言ってしまわないと気が済まないんだろうな。だから英語もドイツ語もダサイのさ。そこへいくと日本語の「いつか王子様が」は、全部言わないので余韻があっていい。「いつか王子様が何よ?」と聞くのは野暮というものである。
 ジャズの雑誌では、このアルバムのことを決して邦題では呼ばない。ブルーで、ちょいワルをウリにしているジャズの世界の住民にとって、ミッキーやドナルドの世界なんて冗談じゃないぞって感じだ。だからわざと「サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム」なんてカタカナにして、そのぬいぐるみ的雰囲気を覆い隠している。

  「不良少年がそのまま大人になったようなマイルスのアルバムが、『いつか王子様が』なんていうんじゃ困るんだよな。それにレコードのジャケットで王女様を待っているのは、なんとマイルスの二度目の奥さんフランシスじゃないか。そんなアット・ホームなマイルスなんて似合わない~!」

という感じで、ジャズ評論家達の間では、このアルバム自体の評価も不当に低いように僕には思われる。

 しかし一般のファンにとっては、このアルバムは結構人気がある。それどころか、これをマイルスのベスト・アルバムのひとつに掲げている人も少なくない。かく言う僕自身がそうだ。何故かというと、なんといっても第一曲目の表題曲「いつか王子様が」の演奏が素晴らしく、かつ個性的であることが挙げられる。
 マイルスが始まりではないだろうが、彼が「いつか王子様が」を、このようにシャレたタッチで描いてみせたことが、他のジャズメン達に影響を与え、「星に願いを」や「虹の彼方に」などのディズニー・ソングが盛んにジャズで演奏されるようになるブームを作ったのではないだろうか?
 次に、アルバム全体のバランスが良いことが挙げられる。つまり、曲の配列が良く、コンセプトとしてのまとまりがあるのだ。速い曲とバラードが交互に現れて飽きないし、その速い曲のひとつひとつも皆キャラクターが違う。表題曲はジャズ・ワルツだし、伝統的なブルースがあるかと思えば、モード手法で書かれた「テオ」のような曲もある。

 マイルス自身も、いつになくリラックスしている。こんな雰囲気のアルバムは、ありそうでない。50年代後半には、スタンダード・ナンバーによるミュート・プレイの曲が数多く録音されたが、それとも違っている。このアルバムが吹き込まれたのが62年という事を考えると、その頃のマイルスを取り巻く特殊な事情が、奇跡的にこの一枚を作り出したと言えるのである。

ピアニストの変遷
 マイルスは、50年代後半にモード・ジャズに興味を持ち、「マイルストーンズ」というアルバムの中の表題作で、始めてモード奏法を試みた。しかしそれまでマイルスのお気に入りピアニストだったレッド・ガーランドはモードが理解できず、結局マイルスのバンドを去ることとなる。
 その後に入ったのが、白人のビル・エヴァンスだった。このエヴァンスと共に、マイルスは59年、不滅の名盤と呼ばれる「カインド・オブ・ブルー」を吹き込む。マイルスは知的なエヴァンスのピアノが気に入っていた。特に彼の演奏するモードの扱い方、すなわち従来の和声法のテンションと呼ばれる付加音とは全く違ったトーン・クラスター的ヴォイシングが、マイルスのモードの世界を大きく広げたと言われている。だが残念なことに、白人のエヴァンスは、バンドの内外で黒人からのいわれなき逆差別に遭い、一年足らずでバンドを去ることになる。マイルスは怒って、
「オレは、良いプレイをするんだったら、皮膚が緑色で、赤い息を吐く奴だって雇うさ。」
と言ったが、帝王マイルスとてエヴァンスを引き留めることは出来なかった。うーん・・・・本気で引き留める気あったんかいな?

 僕には、マイルスがエヴァンスを引き留めなかったのには、もう一つ理由があるような気がするんだ。マイルスは「カインド・オブ・ブルー」で、一曲だけ伝統的なブルースをエヴァンスではなくウィントン・ケリーに弾かせているだろう。マイルスはきっとモード・ジャズについてはエヴァンスに一目置いていたものの、クールで白人的な彼の演奏にある種の不満を抱いていたことも事実のようなのだ。この辺がマイルスの持つ二律背反だ。つまりマイルスの知性と感性は、時として相反するのだ。

 今僕は、まるでコレクターのように、マイルスの50年代後半から60年代初頭にかけての、海賊版と言ってもいいようなライブ演奏のCDを買いあさっているが、その中にエヴァンスがストレート・ノーチェイサーというセロニアス。モンクの作曲したブルースを弾いている演奏が二種類ある。これが結構ダサイ。
「やっぱりブルースは黒人でなければ。」
と黄色人種の僕が言うのもおかしいのだが、とにかくあのブルースはいただけない。僕がこう思うんだから、一緒にやっているマイルスはとっくに分かっていて、「カインド・オブ・ブルー」で意図的にはずしたのだ。

 エヴァンスが去った後にマイルスが好んで使ったのが、「カインド・オブ・ブルー」でブルースを弾いていたウィントン・ケリーだ。マイルスは、
「ウィントンはオールマイティでなんでも弾けた。」
と褒めているが、そうでもないなあ。この頃のケリーをじっくり聴いてみると、やはり彼の本領は、従来のコードによるブルージーなジャズにおいて発揮される。エヴァンスとは全く正反対で、モード手法は、やれと言われてやっていたが、どうも本音でモードが大好きであったとは言い難いなあ。
 モード手法による演奏は、楽曲自体が単調で変化に乏しいから、アドリブは自分で起承転結を設定しなければならない。つまり、本人のアイデアの引き出しが多ければ多いほど優れた演奏になるが、逆の場合はかなり悲惨な結果となる。
 確固たるリリシズムの世界を持つマイルスや、超絶技巧を持ちながら瞑想的でもあるコルトレーン、教会音楽的な全音クラスターを武器として清冽なサウンドを作り出すエヴァンスなどにくらべて、ケリーは器用にモードっぽく弾けても、彼にはそれをもって構築するべき独自の世界がなかった。
 だからケリーの演奏するモードの曲は、弾いている途中でやることがなくなってくる。そうすると饒舌なだけに空虚な内容が浮き彫りになってしまう。マイルスは、だんだんケリーにモードで活躍する場を与えなくなってくる。
 後にマイルスは、ハービー・ハンコックという、真のオールマイティ・ピアニストを得ることになるが、その時までのマイルス・バンドは、前衛的という意味では停滞期にあったと言っても差し支えない。

 そうした背景の中、「いつか王子様」は生まれた。だから悪口を言うと、このアルバムは60年代でありながら一種の退行状態にある。それが評論家達にネガティブな評価を与えているとともに、同じ理由で、逆に、一般のファンからは高い人気を得ているのだ。

モブレーとコルトレーン
 また、このアルバムならではのもう一つの特徴がある。それはハンク・モブレーとジョン・コルトレーンという二人のテナー・サックス奏者が競演していることだ。「カインド・オブ・ブルー」が生まれた頃のマイルス・バンドでは、レギュラー・メンバーとして、アルト・サックスのキャノンボール・アダレイと、テナー・サックスのコルトレーンがいたが、それぞれ自分がリーダーになったバンドを持ちたいと思って、相次いで退団していった。
 そこでマイルスは、ソニー・スティッドに続いてハンク・モブレーを迎え入れた。モブレーも伝統的なコード・ジャズの演奏家だったので、ケリーとモブレーだけで作り出すサウンドは、一流の演奏にもかかわらず、マイルスにとってはあまりにも古くて耐え難かったに違いない。そこで彼は、一度やめたコルトレーンを、この録音だけのために呼び寄せたのだ。モブレーにとっては面白くなかっただろうけれど、このアルバムを一流のものにするには、必要不可欠な選択だった。

 コルトレーンは、表題曲と「テオ」の二曲だけ参加しているが、ここに我々はコルトレーンの大きな成長を見ることが出来る。60年にマイルス・バンドをやめる直前のヨーロッパ・ツアーでのコルトレーンを聴いてみると、ひとりバンドから浮いていた。テーマの持つムードを大事にするマイルスのソロを意図的にぶち壊すように、気のないフレーズを無意味に繰り返したかと思うと、突然シーツ・オブ・サウンドの嵐で超絶技巧が果てしなく続き、一体この曲のテーマは何だったっけと忘れてしまうほどだった。オレはもう自分の道を行くんだからねと、別れを宣告しているような演奏だったのだ。
 それが、やっと独立できて、嬉々として「マイ・フェイヴァリット・シングス」なども録音して、自分のバンドの方で満たされて精神的にも余裕が出てきたのだろう。とても大人になって戻ってきたのだ。といっても、相変わらずシーツ・オブ・サウンドは連発しているけれど、少なくとも、マイルスの作りたい雰囲気を壊さないように努力している跡は見える。
 そのコルトレーンのお陰で、このアルバムは陳腐なただのリバイバルとならずに、新しい時代の風をも感じさせる作品に仕上がった。聴衆より一歩先に行っても、二歩も三歩も先に行っていないので、マイルス入門にもちょうどいいのだ。分かりやすいことと、マイルスの個性が現れている割合が絶妙というわけだ。加えてベースのポール・チェンバースが職人性を発揮し、美しいベースラインで胸を打つし、ドラムのジミー・コブは、知的に抑制された中で、ここぞという時にキメの一発を叩く。これがフィリー・ジョー・ジョーンズだったら、目立ちすぎてうるさくなってしまっただろう。
そんなわけで、それぞれ寄せ合ったパーツが揃ってみたら、気づかないうちに希有の名盤が出来上がっていたというわけ。

Someday My Prince Will Come
 ポール・チェンバースが弾くF音の保続低音の上に、ウィントン・ケリーがモード風のヴォイシングで和声を重ねていくが、その内、独特の飛び跳ねるような右手のメロディーが現れるのがケリーらしい。ビル・エヴァンスだったらブロック・コードのみで弾くだろうな。いや、ケリーを批判するわけではなくて、これはケリーの持ち味として評価できる。
 やがてマイルスがメロディーを吹き始める。チェンバースはまだ保続低音を止めない。Bb D7 Eb G7 Cm7 G7 Cm7 F7と進んで、再びBbとなるところで、チェンバースがBbの第三音であるDに降りる瞬間がたまらない。その後はD Db C Fというラインを辿っていくが、チェンバースのベースは音程も良いし、ラインが美しいなあ。正統的というのはこういうのを言うのだ。

 テーマに続くアドリブでは、マイルスのプレーはメロディーの延長のようだ。フランク・シナトラのメロディーの崩し方が大好きだったというマイルスは、ある意味シナトラ風にメロディーの原型を残しながらアドリブをしていく。ほとんど速いパッセージが出てこないが、リズムを強調したりして飽きさせないのがマイルスの凄さ。
 前半のハンク・モブレーに関する記述で、彼に対する悪い先入観を植え付けてしまたかも知れない。言っておくが、僕は個人的にはモブレーのプレイはとても好きだ。このアルバムが話題となった頃は、新しい音楽が出来るか出来ないかが評価の決め手になっていたので、モブレーの評価は低かったが、こうしてジャズという音楽が過ぎ去って、その間に流行ってすたれたあらゆるスタイルを俯瞰出来る現代の視点からみるならば、大事なことはもはやスタイルではなく、プレイ自体の内容であったことが分かる。
 モブレーのプレイは、マイルスの後を受けて、やさしく癒し系の音楽を奏でる。コルトレーンやソニー・ロリンズなどにはない暖かみのある柔らかいトーンがたまらない。
そしてウィントン・ケリーのソロに受け継がれる。ケリーのソロは愉悦感に溢れ、コロコロころがる右手が楽しい。

 マイルスが再びテーマを吹くので、これで終わりかなと誰しもが思っているところに、いよいよ真打ち登場という感じでコルトレーンが吹き始める。同じテナーのモブレーの後だと、つくづくコルトレーンのプレイって個性的だなあと感じられる。コルトレーンなりには気を遣っているのだろうが、アドリブがだんだん発展していくにつれて、原曲の持つ甘さなどはどこかに吹っ飛んでしまう。とにかく音が多いよ。でも緊張感溢れる良いプレーーだ。
 みたびテーマが戻ってきて、コーダがまたモード風に延々と続いて、最後は静かに終わる。なんてしゃれた演奏。この一曲だけでマイルスが大好きになってしまうよ。

Old Folks
 心に染みいるバラード。マイルスのミュートによるプレイは、息の混じった音を使ったり、音程をぼかしたり、ブルー・ノートでのポルタメント奏法など、トランペットという楽器が出来得るあらゆる奏法を駆使して究極のリリシズムを表現する。
 他のトランペッターは皆、アドリブ・フレーズを整ってきれいに演奏することにばかり神経を集中させるので面白くないが、マイルスのバラードが感動的なのは、こうした配慮があるから。
 テンポが倍になって、ハンク・モブレーのソロに受け継がれる。このモブレーのソロは、このアルバム全体の中でも光っている。次いでウィントン・ケリー。少し元気が良すぎる気もするが、このくらい盛り上がった方が曲全体の印象を派手にしていいか。マイルスが戻ってきて静かに曲を終える。

Pfrancing
 ブルースの大得意なウィントン・ケリーの魅力がクローズアップされたFの伝統的なブルース。テーマからしてケリーのソロで始まる。第2コーラス目のホーンによるテーマではマイルスの長く引き延ばされたBb音が印象的。
 アドリブ・ソロは、ケリー~マイルス~再びケリー~モブレー~チェンバース(ベース)~またまたケリーと、三度に分かれてケリーが大活躍だ。ケリーのソロは回を重ねる内に音も多くなり発展していく。三度目のソロはわずか2コーラスだけだが、飛躍するパッセージが楽しい。
 マイルスもブルースは大好きだ。いろいろなアルバムで優れたブルースの演奏を聴かせるが、ここでの演奏はその中でも白眉の出来だ。モブレーも、こうした伝統的な曲ではリラックスして良いソロを繰り広げる。

Drad-Dog
 シンプルなバラード。ケリーのリリシズムが胸を打つ。マイルスのバラードは最初からテーマを崩しているので、聴く方もどれがテーマでどれがアドリブなどと詮索しない方がいい。全てをアドリブだと思って全体をゆったり聴くことを奨める。

Teo
 有名なプロデューサーであるテオ・マセロにちなんで作られたモード手法によるジャズ・ワルツ。最初にマイルスが吹き始めるメロディーがテーマのように聞こえるが、従来のようなテーマの役割は果たしていない。むしろFドリア旋法、Aフリギア旋法、Dフリギア旋法が好きなだけ続き、その上に自由に繰り広げられるアドリブが聴き所。
 同じ旋法の上でも、マイルスが吹くとスパニッシュな感じがして、スケッチ・オブ・スペインのソレアを彷彿とさせるが、コルトレーンのアドリブでは、もっと抽象的かつ瞑想的になって、スペインはどこかにいってしまうのが面白い。ここではウィントン・ケリーは伴奏に徹している。
 マイルスは、ここでゲストで参加しているコルトレーンに未練タラタラな感じだなあ。無理もないよな、やっぱりコルトレーンは特別だもの。その後、ジョージ・コールマンや、東京公演のサム・リバースなど、いろいろテナー・サックス奏者を渡り歩いても、ずっとコルトレーンの影を引きずっていたものな。
 とにかくコルトレーンのお陰で名演になったこの「テオ」は、このアルバムの価値を最大限に高めてくれた。

I Thought About You
 この32小節のバラードを、マイルスはかなりストレートで吹いているのだけれど、マイルスのバラードは他のプレイヤーとは決定的に違う。そのテーマを使いながら、全く新しい世界を構築するのだ。
 1コーラスをまるまる吹き、2コーラス目の途中からハンク・モブラーにちょっとだけソロを渡す。最後は美しい余韻を残して終わる。このバラードでこのアルバム全体を閉じるのも、マイルスのニクいやり方。ここまで聴くと、やっぱりこのアルバムは傑作だなあと妙に納得するんだ。

2008.12.8




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