ケンプのベートーヴェン

三澤洋史 

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ケンプのベートーヴェンその1
角皆君のエッセイ

 いつも気紛れに発刊する音楽雑誌クラシック・ジャーナル。最近出たのは「特集は、ピアニスト」。編集長の中川右介(なかがわ ゆうすけ)氏が編集後記で自ら書いているように、「書き手の人達がそれぞれの方法論で、自分の好きな、あるいは興味のあるピアニストについて書き、書き手それぞれの対象との距離感がかなり異なる」仕上がりになった。
 なんといってもピアニストの数は膨大で、しかも様々なタイプがいるからね。オリンピックのアスリートのような超絶技巧のせめぎ合いがある一方で、「ベートーヴェンをどう精神的に演奏するか」などといった別のシビアさもあるピアニストの世界。全ての面においてひとり勝ちすることなど不可能だ。

 その数あるピアニスト達の中で、あれだけテクニックの不足を指摘されながら、亡くなって随分経つのに、今なお人気を失わない稀有なるピアニストであるヴィルヘルム・ケンプについて、僕の親友の角皆優人(つのかい まさひと)君がエッセイを載せた。
 夏に白馬に遊びに行った時、ちょうど彼はその原稿を執筆していた時で、僕達はケンプの演奏を聴きながら彼といろいろ話をした。演奏家によっては時に趣味が真っ向から対立し議論にもなる僕と角皆君ではあるが、ケンプに関しては、二人ともおおむね意見が一致している。

 角皆君のエッセイには、ところどころ厳しいアスリートとして歩んできた彼の魂の軌跡がちりばめられている。

たとえどんな天才であっても、テクニックを磨くためには、スポーツ選手と同様の修練が必要となる。長時間にわたる厳しい反復練習を、何年も、場合によっては一生続けなければならない。加えて、練習の開始時期が幼年期でない場合、神経系の発達に限界があり、最高峰の技術まで到達することは不可能となる。
 これは事実である。そのことは僕自身の指が証明している。僕も思春期になってから自分の意志でピアノを始めた。何時間も練習して練習して、腱鞘炎になるくらい練習したが、一日弾かないでいると惨めなくらい指の筋肉が戻ってしまう。どうも、そういう風に体が形成されていないのに無理矢理意志の力で従わせている感があるのだ。
 一方、小さい時からピアノを弾く生活を普通にしていた娘の志保なんかを見ていると、ごく自然に体の筋肉がピアノを弾くように形成されている。職業ピアニストになろうと思うなら、志保のようでなければ、やっていくのは限りなく難しいのが現実だ。
 幼少期から青年期にかけてむしろ作曲に没頭し、ピアニストとしてのテクニック練習を意図的に避けたケンプも、いざ並み居る強豪揃いであるピアニストの世界に参入していこうとした時に、基本的な筋肉及び神経の形成が充分でないために、とても苦労したに違いない。でも角皆君は、だからこそ、ケンプはケンプなのだと力説する。

 夏。白馬での僕と角皆君との会話。
「あのさあ、プールで泳いでいると、隣で小学生が水泳教室やっている時があるんだ。こんなちっちゃい子供が、バシャバシャともの凄い速さで泳いでいるのを見ると、嫌になっちまうよな」
「でも、そういう子達がみんな大きくなってオリンピック選手になるとは限らないんだよ。それに、そうやって大人になっていった連中は、話をしてもつまらないんだ」
「でもさあ、スポーツって所詮タイムだったり順位だったりするじゃないか。つまらなくても別にいいだろ」
「それがそうでもないんだよ。思春期になってからは自分の意志でモチベーションを保たなければならないんだ。自分が本当はどうしたいのか?一生これを続けていく気があるのか?必ず向かい合う時が来る。その時平気でやめちゃったりする」
強制的な厳しい練習を課しすぎると、ピアニストから瑞々しいロマンチシズムが削ぎ取られたり、奔放な創造力が奪われたりする場合もある。ちょうどアスリートにおける燃え尽き症候群のように。
 僕が、幼年期から青年期にかけてスポーツに対して苦手意識を持っていたのは、スポーツが嫌いというよりも、あの闘争的環境に抵抗感を覚えていたせいである。なんてったってみんな、すぐに勝ち負けや順位やタイムにこだわるじゃないか。だから水泳は水泳部にはかなわないし、弱い奴はやっても仕方がないだろう的な価値観が蔓延していただろう。全く闘争的な人間でない僕のような者が、
「自分のペースで好きに泳ぎたいんだ」
と言って受け容れてもらえる環境は、そこにはなかったのだ。
 音楽の世界も同じだ。みんながプロになりたがっているから無理もないのだが、誰が一番うまいかという競争社会の真っ只中に放り出されて、やれコンクールだオーディションだ、もっと速く弾け、もっと人の出来ないことをやれと目の前に人参をぶら下げられ続ける内に、音楽を好きでいる気持ちなんかどこかに飛んでいってしまうではないか。さて、望んだ通り1番になったけれど、ではこれから何を表現すればいいんだ、というんじゃ本末転倒だ。

 ケンプは、そういう世界の対極にいる。彼はそもそも勝負するためにピアノを弾くのではない。彼は、語るためにピアノに向かうのだ。そして、そのケンプを愛する角皆君も、勝負するためにスポーツをするのではない。もし勝負したとしても、それは自分自身との戦いである。彼は水泳をしても、順位よりも自己ベストにこだわっている。一位になっても自己ベストを更新できないとちっとも嬉しくないようだ。
 なんて不思議な人間!ちっともアスリートに見えない。彼は求道者のようにスポーツに向かい、芸術家のようにスポーツを奏でる。加えて角皆君の場合は、数々の怪我や挫折を経験し、それがまた彼をケンプの音楽に惹きつける。それが次のような文章を紡ぎ出すことになる。
彼ほど音の透明さで聴き手の心を奪ったピアニストもいないだろう。その音は明るさを基調としていたが、決してまばゆいほどに輝くことはなかった。いつも少しだけ控えめに聴き手の心を叩いた。実演に聴くケンプの音色は、透明さを基調にしてありとあらゆる色に変化したが、その音のどれもが、半透明な清らかさと、ある種の静穏さを運んでいた。
 うーん、まいりました!なんと美しい文章!僕も文章を書くけれど、ケンプのことをこんな風に描写出来ない。同じように感じてはいるのだけれどね。我が意を得た文章に嬉しくて、角皆君にメールを打とうと思ったら、これも共時性でしょうか、書く前に受信したメール・ソフトに角皆君からのメールが入っているではないか。それで早速僕の気持ちを書いた。親友っていうのは、なにか人知を超えたつながりのようなものがあるんだ。

CDを買ってi-Podへ
 さて、気が付いたら、僕はケンプのCDをほとんど持っていない。ベートーヴェンのステレオ録音のピアノ・ソナタ全集を始めとして、シューマンの「子供の情景」だの、みんなレコードばっかり。そこでピアノ・ソナタ全集をあらためてAMAZONで注文したら、なんと次の日にもう家に着いた。
 嬉しいんだけどね。逆に言うと、これであの大きくて重たいレコード全集が無用の長物になってしまった。学生時代になけなしのお金をはたいて買った全集だよ。こうしてCDを買い直す毎にレコード棚が本当に無価値になってきてしまう。

まあいいや。CDの方は早速i-Podに入れて聴こうっと。

 久し振りにあらためて聴いたケンプは、僕に衝撃を与えた。いや・・・・いい!・・・・って、ゆーか、めっちゃいい!凄くいい!ブラヴィッシモ!こんなに良かったんか、ケンプって・・・・・・。

 実はその前にポリーニのベートーヴェン初期ソナタがi-Podに入っていた。それなりに楽しめたのだけれど、時々聴いていて腹が立っていた。何故かというと、ポリーニって、結局ベートーヴェンに対しても「上から目線」なんだ。
 後期のソナタが案外良いのは、最大限にリスペクトを払っているからだと思うが、初期の場合、テクニックを誇示出来る所に関しては、それがベートーヴェンであるのを忘れてしまったかのように「弾き飛ばして」しまうのだ。鮮やかだけれど、ベートーヴェンの場合は、テクニックが片時も意識から離れて一人歩きしてはいけないんだ。だから、ポリーニに関しては、あろうことか初期の作品の方が後期ソナタより駄目なのだ。
 まだある。ベートーヴェンがわざとコントラストを強めていきなりフォルテを叩きつけることで一気に次の展開に持って行こうとするような個所で、ポリーニは、あまりにコントラストを立てすぎるので、それがベートーヴェンの独創性を際立たせるどころか、なんだか滑稽になってしまうんだ。本人そのつもりないのだろうが、それが結果的にポリーニがベートーヴェンをおちょくっているように感じられてしまう。

 そこへいくとケンプの演奏は、どの作品を聴いても同じように作品を大切に大切に扱っているのが分かる。コントラストの個所は案外ケンプもガツンガツン弾いているけれど、全てが適切で、まさにベートーヴェン以前の音楽には決して見られなかった天才的で大胆な切り込みが浮き彫りになってくるのだ。
 それに、こうやってあらためて聴いてみると、ケンプだって案外テクニックあるじゃないかと思う。少なくとも鑑賞の邪魔になるというような意味で、ケンプのベートーヴェンにテクニック不足を感じる瞬間はなかった。というか、ケンプが表現するために必要なテクニックを、彼は全て備えているのだ。
 もうそれでいいじゃないか。ポリーニのように過剰にあることで僕を腹立たせるくらいだったなら、余計なものはない方がいい。そうだ、そうなんだ!必要なだけあればいい。いや、もしかしたら、必要なだけあると感じさせることこそ、真のテクニックなのかも知れない。

 それにしても、ケンプのベートーヴェンから香り立ってくる、いいようのないほの暗いロマンチシズムはなんだ!もうとっくにこの世にはいないベートーヴェンなのに、かつて紛れもなく生きていて、悩み苦しみながら自らの魂の軌跡を作品に刻み込み、今こうして僕の魂に入り込んで心を激しく揺する。
 ケンプの弾くベートーヴェンは、ベートーヴェンの深い嘆きを伝え、僕達をやさしく慰め、夢幻的な世界に誘いながら、僕達に明日への希望を与えてくれる。凄いな、ベートーヴェンって!凄いな音楽って!凄いな芸術の力って!そして、そんなことを感じさせてくれるケンプも凄いのだ!

 ひとつだけ難点を言う。CDの音ってレコードと違うねえ。ケンプは時々、右手の高音の単音を、まるで将棋士が最後の詰めの駒をパッツーンと将棋盤に打ち込むように潔く叩く時がある。ああいう音でもレコードはもっと柔らかかった。CDだとただのカッチーンとなってしまう。やっぱりあれはパッツーンでないと絶対にいけない。音が勝負のケンプだけに、その点はとても残念。なんとかならないか?

ケンプのベートーヴェン その2
ベートーヴェンを弾くということ

 ケンプのベートーヴェンを聴き続けている。思いの外ハマッている。なんでもないフレーズが心に染みて、時々なんだか泣きたくなってくる。こんな繊細なベートーヴェンを弾く人はもう現れないと思う。
 悲愴ソナタ第3楽章のテーマは、わざと少し大きめに入る。そしてフレーズの終わりをやや弱く弾く。そのことによってそこはかとない雰囲気を醸し出すことに成功している。さりげないので気が付かないが、実はこんな風にいろいろな処理が施されている。それらは全てケンプの感性から出ている。もっとオーバーに言えば、ケンプの人生観や哲学から導き出されている。

 あらためて聴くと、いろいろケンプの癖も分かってくる。前打音などの装飾音をビートの上ではなく前に出すことが多く、それによって他の演奏家と随分イメージが変わることがある。今となっては、「ああ、ケンプってこうだったな」となつかしい。
 それと、たとえばテンペスト・ソナタの第1楽章でも見られるが、4分音符などを思い切って短くカッという感じで切ることが多い。時々、そこまで短くしなくてもと思うが、フレーズをサッパリと切り上げるところは、ある意味オリジナル楽器によるピリオド奏法にも通じるところがある。
 そういうこともあって、ケンプの演奏は、どんなにロマンチックになっても、重厚過ぎたり、脂ぎった濃厚さに陥ることは決してなく、清楚で軽やかな感じを失うことがないのだ。

 ベートーヴェンはもっと強く骨太な音楽だという意見があってもいいと思う。でも、こうした演奏を可能にしているのだから、ベートーヴェンの音楽の中にも、傷つきやすさやもろさや弱さがあるのだ。ケンプのベートーヴェンを聴いていると、音楽を鑑賞するということの意味が、単に楽しみのひとときを持つということから飛翔して、人生の中でかけがえのない体験を深めていく行為となっていくのを感じる。

 第7番(Op.10 No.3)ニ長調ソナタの第2楽章ラルゴ・エ・メストで、僕達はベートーヴェンの心の奥の慟哭と深い孤独に出遭う。聴いているこちらまで身が硬くなるほどの戦慄を覚えるが、僕が本当に涙するのは、むしろ第3楽章メヌエットに入った瞬間だ。なんというやさしい音!なんという慰めに満ちた音楽をケンプは奏でてくれるのだろう!
 テンポは思い切ってゆっくりで、古典的形式感を最優先するならば、メヌエットにしてはロマンチック過ぎるのではという意見もあろう。でもケンプの第2楽章の演奏の後には、この音でこのテンポ以外にはないんだなあ。
 こんな風に前の音楽のあり方が次の楽章のテンポやフレージングなどの方向性を決めるのは、今日となっては当たり前のようだけれど、そこにこのソナタの革新性がある。

 もうちょっと分かり易く説明しよう。古典派のソナタというものは、いくつかの独立した楽章から成り立っている。それぞれはそれぞれ別の主題を持ち、別の速さや性格を持っていながら、ゆるやかにつながっており、ソナタ全体を形成している。
 ベートーヴェンは、初期のソナタでは基本的に各楽章の独立性を重視していた。第1番ヘ短調ソナタなどは、両端楽章のソナタ形式による速い楽章にはさまれて、緩叙楽章とメヌエットがそれぞれ配置され、見事な均衡を保っている。でも、作品が進む内に、楽章間のつながりのあり方に様々な変化が見られるようになってくるのである。 
 第7番では、前の楽章が終わって次の楽章が始まるまでの間に、沈黙という音楽が流れていて、次の楽章が始まった瞬間、その音楽がもたらすところの対比が感動を呼ぶのである。このソナタの前には、このように始まった途端に始まったことでウルウルとくるということはなかった。でも、こう説明してしまうとなんて味気なくなってしまうのだ。こんな僕の説明より、ケンプ自身の言葉に耳を傾けてみよう。

ベートーヴェンは、「ただひとり、すべての喜びから引き離されて」いる。われわれは震撼しつつ、不幸なる人のこの告白の前に立つ。黎明にさえずりを送る鳥のようにおずおずと、繊細なメヌエットがはじまるが、トリオに至って、肯定的な生の喜びが決定的に取り戻される。
[ポリドール株式会社、ケンプ・ベートーヴェン・ピアノソナタ全集付属のパン フレットより、ケンプのコメント、礒山雅訳]
 僕がこの文章を読むのは、演奏を聴いてから随分後だったけれど、やっぱりこう思って弾いていたんだ。ケンプのこうした気持ちが演奏にいみじくも現れるのだ。ベートーヴェンを弾くということはこういうことなのだ。ベートーヴェンの作品にこめた想いや、独創性を真に理解し、音に乗せて弾くところまでいかなければ不充分であり、ピアノが上手いだけではだめなのだ。だからベートーヴェンを本当に聴かせることの出来る人は少ないんだな。

ベートーヴェンの作品は後にいくほどいいか?
 さて、僕のケンプ鑑賞は、初期ソナタから始まって、後期にまで辿り着いた。作風の変遷を辿って行くと、ベートーヴェンの音楽家としての歩みがわかる。でも、今回僕が強く感じたのは、それは変遷ではあっても、必ずしも進歩とか成長とかいうものとは限らないということだ。勿論、一人の人間が人生を送りながら長年に渡って音楽活動をしているのだから、その間に新しく会得した手法や新しい心情や境地というものはある。でも、一方で、初期の作品が中期や後期に比べて“未熟”かというと、断じてそうではない。
 バッハやモーツァルトのような「早くから作風を確立している」作曲家に比べて、ベートーヴェンは、一作ごとに「進歩」していった作曲家であると一般的に認識されている。それに僕は疑問を投げかけたいのだ。第1番のヘ短調ソナタは、先ほどの楽章構成でも触れたが、逆に言えば、ハイドン風古典主義ソナタとして一分の隙もないほど「完成して」いる。ベートーヴェンも、作曲家としての基本的な資質としては、若くして充分成熟していたと僕は主張したい。
 一方、中期になると、月光ソナタをはじめとして幻想曲風ソナタなどをいくつか試みるようになるが、それらは前期の強固な楽章構成を持つソナタを全ての面において凌駕しているかというと、そういう問題ではない。現にその一方で、ワルトシュタイン・ソナタのような構成的にもしっかりした作品を書き続けているからである。ただ、第1楽章は必ずアレグロでソナタ形式で、その後にゆっくりな楽章が続いて・・・・というソナタの固定概念を打ち破って、自らの心の指針に従って楽曲を構成してみたかったのだと思う。
 その傾向は、後期ソナタになるともっと顕著になってくる。同時にソナタ形式だけでなく、ベートーヴェンお得意の変奏形式やフーガなどのアイテムが随所に顔を出す。ベートーヴェンは、それらの要素を上手にソナタ形式の中に取り込んで、まさにベートーヴェンならではのユニークな楽曲構成に仕立て上げているのだ。確かに作曲家の個性が色濃く出ているという意味では、中期から後期ソナタは興味深い。でも、逆に言えば、ベートーヴェンはそれ故に古典派の完成者ではない。むしろ古典派の解体者である。
 古典派の完成者を見たいならば、何といっても前期のきら星のごとく輝く作品群を味わうべし。僕は前期ソナタが大好きなのだ。どのソナタも一分の隙もなく仕上がっているし、楽想の新鮮さやモチーフの展開の仕方など充分に独創的だ。

 たとえば悲愴ソナタの若々しい情熱は、その後のどの作品にもない独特の魅力を持っている。第2楽章の甘酸っぱい感傷は、晩年のベートーヴェンの寂寥たる心情とは異にするが、だからといって老人が若者の真剣な苦悩を軽んじて良いという証拠にはならないであろう。自分のことを思い出しても分かるが、若者は若者なりに、どうしても得たいと思っても得られない望みがあり、辛い挫折があり耐え難い絶望があるのだ。
 悲愴ソナタを聴いて涙する僕の心は自分の青春時代に戻っている。若い日には、もっと太陽はギラギラと輝いていたし、自分は数え切れないほどの若気の至りを行い、戦わなくてもいい無益な戦いを行って、他人をも自分自身をも傷つけてしまった。でも、それが若さというものだ。今から考えると赤面せずにはいられない数々の愚かさを、だからといって僕は自分の人生において否定しようとは思わない。何故なら、その時その時には本当に真剣だったし、そうとしか生きられなかったのだ。そして、そう生きたから現在の自分があるとも言える。傷つけた人達には本当に申し訳ないけれど・・・・・。
 そんな僕が、もう一度若気の至りに戻ることが出来ないように、晩年のベートーヴェンにはもはや悲愴ソナタは書けないし、書く必要もないのだ。しかし悲愴ソナタは、ある時期のベートーヴェンの偽らざる心情として永遠に存在するべきなのである。

 ベートーヴェンのピアノ・ソナタは、まるで彼の日記のようだ。人生の長きに渡って同じジャンルの作品を書き続けるということは、そういうことなのだ。その時その時にマイブームがあり、関心の向く方向が違い、仕上がりの肌触りが違う。ずっとソナタを書いていれば、自分の中でワンパターンに陥ってくる部分もあり、いろいろ試みてもみたくなるだろうし、どうしてもやむにやまれぬ欲求から夢中で作っている内に、既成の形式を飛び出してしまったということもあるだろう。それで次の作品ではまた戻ってみたということもあるであろう。そうして出来上がったのが32の異なった顔を持つピアノ・ソナタという魂の軌跡なのである。

2011.11.16



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