Bayreuth 2001

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

7月8日(日)
 昨日の7月7日はフリードリヒの奥さんのお誕生日で、僕達アシスタントもお誕生パーティーに招待されていた。日中は晴れていたのに、夕方から急に天気が崩れて、大粒の雨がどしゃどしゃ降り、雷まで鳴った。そういえば朝からドイツにしては珍しく暑かったからね。

 お呼ばれの時は、ドイツではよくワインかお花を持っていくものだけど、僕はあらかじめアジア食料品屋で買っておいたチョーヤの梅酒の大瓶を持って行った。フリードリヒの奥さんは珍しそうに目を輝かしてくれた。
 パーティーはバイロイトの地ビール「Aktienビール」の工場直営ビアホール、Aktienkeller という店で、ビールがめちゃめちゃ美味しかったものだから食事が出てくるまでにすっかり酔っ払ってしまった。
 ビールはワインやウィスキーと違って長い間寝かせたりする必要がないばかりか、むしろ新鮮さが勝負だし、厳密に言うと移動したらもう味が落ちると言われている。ビール王国であるドイツで生ビールを最もおいしく飲める方法は、何と言っても工場直営店に限る。
 僕はウドーっていうベルリン国立歌劇場の舞台監督(彼は小錦を思わせる超でかいおっさん)やシューベルト、オリバーといった合唱アシスタントと一緒にいた。

 シューベルトの彼女は、有名なバス歌手ハンス・ゾーティンの娘だ。美人だけどとっても背が高くて、彼女が僕の横に来ると僕は上向いて「おーい!」って感じ。オリバーの彼女はバレリーナ。27歳。今や僕の子分のようになっているオリバーなのに、あんな可愛い彼女がいるとは生意気・・・なんちゃって!ドイツ人だが、レバノンだかどっかの中東の血が入っているのでエキゾチックな顔をしている。まだ箸がころんでもおかしい年頃。よく笑う。箸なんかドイツにはないか。

 こういう時の食事というのはビュッフェ形式なので、好きなものを好きなだけとって食べていい。肉料理がうまかった。デザートにはスイカがあったので、こっちでは珍しいのでいっぱい食べちゃった。ちょっと血糖値が心配。

 結局家に帰ってきたのは1時近く。結構酔っ払っている。明日ちゃんと起きられるかなと心配しながら床に就いた。
 今朝起きたら、案の定、頭が少し痛い。寝ぼけ顔で練習場にいったら、フリードリヒも眠そうな顔をしていた。今日は僕がピアノを弾く日。天気もどんよりしていて頭ボーっとしていたので、練習が始まったら何音か間違えたので、
「いけない、シャキっとしなければ!」
と自分を戒めて、体と指を無理矢理たたき起こした。

 インペクがみんなに楽譜を配りだした。何かなと思って見ると第九の楽譜だ。バイロイトに来てから聞いた話だが、今年はバイロイト音楽祭125周年、戦後バイロイト音楽祭50周年にあたる年で、8月10日に記念演奏会が開かれることになっているのだそうだ。演目はベートーヴェンの第九。
 みんな後から聞いたので、
「ええ?聞いてなーい!」
と文句を言っている者も多い。
「これやるの?」
とフリードリヒに聞くと、
「ちょっとためしにやってみようよ。大初見大会だ。あはははは。」
と言うじゃない。
 おっとっと、ますます寝ぼけている場合ではないぞ!なにい?第九をいきなし弾けだって?こ、心の準備が出来てないよ全く!でもなんとかごまかしながら伴奏して第九の練習が進んでいった。

 す、凄いな。バイロイト合唱団の第九って!日本みたいに第九ずれしてないのでみんなまだヘタなんだけど、きれいにきまった時の響きたるや、圧倒的だね。

 午後は「ローエングリン」がいよいよ舞台稽古になった。バイロイトでは一ヶ月の間に複数の演目の練習がひしめきあっている。いくつもある練習場で立ち稽古をしたら次は本舞台での稽古、オケつきの稽古、そしたらもうゲネプロなんだよね。今日は第一幕だけだけど、3時~5時でピアノ舞台稽古、7時~10時でオケ付き舞台稽古。ここで全ての問題点を解決しておかなければ、次のゲネプロはもう本番と同じようにお客が入った公開ゲネプロだからほとんど止められない。

 演出家のキース・ウォーナーは、今年から始まった4年がかりのTokyo Ringこと新国立劇場の「ニーベルングの指輪」の演出家でもある。彼は今年の4月の「ラインの黄金」公演を大成功のうちに終わらせた。準・メルクルの副指揮者として従事していた僕とも、その間にいろいろ親交を深めたのである。
 彼は遠くから僕を見つけると両手を大きく広げて近づいて来て、
「Arigatou Gozaimashita!」
と日本語で「ラインの黄金」の時のお礼を言った。
「素晴らしい公演だったよね。」
と言ったら、
「本当にそう思う?」
と聞いている。
「勿論!」
と言ったら、子供のように嬉しそうな顔をする。
 こうに言っては失礼だが、彼はその太った体型と童顔とも言える顔のつくりが何ともユーモラスな雰囲気を感じさせる。特に喜んだ時の表情がかーわいいんだ。

 東京でアルベリヒを演じたオスカー・ヒッレブラントは、昨年までフリードリヒ・フォン・テルラムントの役を歌っていたフランス人のラフォンが何かの理由で急に降りてしまったので、「ラインの黄金」の後、急遽テルラムントをやることになった。バイロイト初登場だ。こいつも実に単純な子供のような奴で、バイロイトに来られて嬉しそうだ。
「ヒロ、ここで会えるとはほんとにほんとにすんばらしいねえ!」
なんて有頂天になって言ってる。
 彼は東京ではあんなにウォーナーに反発して言う事を聞かなかったくせに、そのウォーナーに呼んでもらったものだから現金なもので、「はいはい!」と掌を返したように従順になっているよ。
 ところが出てきたテルラムント像は驚くべきものだ。ドイツ人だからフランス人のラフォンとは比べ物にならないくらいドイツ語も立つし、表現も実にきめ細かい。何より好感が持てるのは、歌も演技も全身でぶつかっていくところだ。そのために時々オーバーヒートしてバランスが崩れることもあるけど、いやあ、まいった。考えられないくらい素晴らしい。新国立劇場にいた時はもしかしたらアホだと思ってたけど、それどころか実は偉大な歌手なのかも知れない。

 指揮者のパパーノは照明塔の上でのフォローが最も難しいタイプだ。大振りするのでオケがめちゃめちゃ遅れるからタイミングが掴めない。おととしバラッチの最後の年に初演をしたプロジェクトだけど、バラッチはずいぶんパパーノと喧嘩していた。それを見ていたウォーナーは随分バラッチのこと恐がっていたっけ。

 始まる前に合唱アシスタントみんなでフリードリヒの所に集合。フリードリヒが言う。
「さて最も困難な時がやってきた。みんな気持ちを引き締めて頑張ってね。ここを逃すともうゲネプロになっちゃうからね。」
「オッス!」とは言わないけれど、そんな感じで各員配置につく。
舞台に向かって右側の照明塔に僕、反対側にはシューベルトがいる。オリバーは見習だから僕の後ろで僕のやることを見ている。
 赤いペンライトをゆっくり回すと、反対側のシューベルトがやっぱりペンライトで答える。よく戦争映画なんかで、戦闘に向かって飛び立った飛行機の中から平行して飛んでいる相棒に合図すると、相手の飛行機の中から合図が帰ってくるシーンがあるけど、あんな感じ。なんかこんな時ってワクワクするんだよね。さあて、いくぞう!

 オケ付き舞台稽古はしっかり3時間かかって終わったのが10時。めちゃめちゃ疲れた。難関の「白鳥の合唱」は、僕とシューベルトの息がぴったり合ってうまくいった。だが第一幕フィナーレではパパーノとオケがずれていたので残念ながら合唱もどっちつかずにずれてしまった。仕方ないや、僕達のせいじゃないもんね、と思ってもなんとなくそんな時はみんな釈然としない。
 休憩をはさんでもう一回やり直し。今度はうまくいった。練習はしっかり10時までかかった。みんなくたくた。僕は家に帰って昼の日本食の残りを食べ、今晩はアルコールを抜いて早く寝た。



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