イタリア紀行文 旅行編①

三澤洋史 

アッシジが僕に語りかけるもの
写真 三澤洋史のプロフィール写真

24年ぶりのアッシジの朝
01明け方 夢の入り込む余地もない恐いくらいの静寂の眠り。その中にいつしか鳥のさえずりが忍び込んできた。鳥たちは山肌から山肌へ渡り歩きながら、まるでテープの回転数を最大限に上げたように、超音波に近い高さと物凄いスピードで互いに会話を交わしている。日本で聞いているのと全く違うサウンドだ。やっぱり鳥もイタリア語で話しているのかな?
 聖フランシスコは鳥の言葉を話したというが、ここの鳥たちの会話を聞いていると、なんだか僕にも分かりそうな気がしてくる。

 すっかり熟睡していたんだな。目に見えない無限の暖かさに包まれながらしあわせな眠りからだんだん覚めていくこの心地よさ!瞼を閉じている僕の思考は驚くほど単純だ。仕事のこともいろいろな心配事もなにもかも遠のいて、ただただ無になっている。脳のしわが伸びきった感じ。その無の中に鳥の声だけが響き渡っているんだ。

 遠くの丘陵の輪郭を白い筋状の朝靄でぼやかしながら、ウンブリア地方の朝がやって来た。眼下には平野が広がっている。遠くの家からは煙が立っている。
02明け方 窓を開けてベランダに出ると、ひんやりとした空気が肌を刺す。しかしその空気は、緊張を孕んだ冷たさといったものではなく、人を信じ切った善良さとのどかさに満ちている。


家族のきずな
 聖地アッシジの朝。24年ぶりに僕はこの地にいる。最初にここを訪れた1982年3月は、ベルリン留学時代。妻と二人で春休みを利用してここまで来た。 二人の娘達は当時まだ影も形もなかった。それが今や二人ともパリに留学中で、こうして四人で賑やかな旅に出てきたのである。
03家族のきずな
 今や、日本にいても四人の家族が一同にそろうのは珍しい。仮に一同にそろっても、娘はそれぞれに友達に会ったり、僕も妻も日常生活に追われているので、なかなかべったりとした関係でいることは出来ない。そういう意味では、家族であることを確かめ合うために旅行ほど良い方法はない。
 家族水入らずで旅行すると、大人になった二人の娘達も、小学校時代の家族旅行の雰囲気のままになって本当に楽しい。四人もいるとそれぞれがそれぞれのことを言い出すが、それでも家族というのは素晴らしく、相手が言い出す前にそれぞれの行動パターンが読めるので、気を遣う必要が全くないのだ。

 長女志保は、
「ねえ、パパあ。」
と言いながら、僕が寝ているベットに当たり前のように潜り込んでくるし、次女の杏奈なんか、街角を歩いていると、小学校の時のまんまにパパに体を引っ付けてくる。
もう糸の切れた凧のように大人になった彼女たちとは離れてしまったと思っていたけれど、糸はつながっていたんだ。
 娘達が二人ともパリに旅だって、妻も僕もある種の喪失感と虚無感の中で暮らしていた。でもこうして家族のきずなを確認すると、少なくとも虚無感だけはきれいに消えた。離れてしまったのを嘆くのではなく、離れていてもつながっていることを見つめるべきなんだ。それにしてもあんなに幸せそうな妻の顔は久し振りに見るなあ。それを見ている僕も幸せだなあ。

St. Anthony's Guest House
 アッシジの街は中世のまま時が止まっている。聖フランシスコが、坂の多い路地裏や、教会前の噴水の影や、市門のアーチからいつも顔を出す。フランシスコの息吹がどこにも感じられるのだ。その中でも最もフランシスコの息吹がただよっているのは、僕達が泊まったSt. Anthony's Guest House だ。
04St. Anthony's Guest House ここは女子フランシスコ会が経営している宿泊施設で、感じの良いシスターが出迎えてくれた。部屋には電話もテレビもないけれど、こざっぱりとして清潔。 特に僕達夫婦の部屋のベランダからの眺めは最高。その様子は冒頭で書いた。

 朝9:00から、施設内の小さくて暖かい感じのする聖堂でミサがある。そのため朝食は7:00~8:30までの間にとらねばならない。普通のホテルの感覚からすると、寝坊できなくて不便に感じる人もいるだろうが、僕達家族のようにカトリック信者にとっては、逆に9:00のミサというのは遅く感じられる。

 子供達が小学校の頃は、国立の桜通りの近くに愛徳カルメル会の女子修道院があって、そこの聖堂で行われるミサが6:30からだった。妻は僕よりずっと熱心な信者なので、当時は毎日通っていた。僕も子供達もつられてよく行った。帰ってきてから朝食の用意をして子供達は学校に行ったのだ。だからミサが終わってから朝食という方が慣れているなあ。 その愛徳カルメル会も閉鎖になってしまって、子供達にやさしくしてくれたシスター達もそれぞれ本部に戻ったりして離ればなれになってしまった。

 ミサに行って驚いた。ミサは英語で行われていたのだ。考えてみたらここはアメリカ資本の施設なんだ。だから他の宿泊客もほとんどが英語圏の人達だ。どうせイタリアに来たのだからイタリア語のミサにあずかりたかったなあとも思うが、まあ別に何語でもいいや。でもアーメンをエイメンと発音するのだけはちょっと許せないなあ。

過ぎ去った24年間
 すぐ目の前の聖キアーラ教会を出発点として他の観光客のように街中を観光して回ったけれど、ここでは書かないことにする。それは「地球の歩き方」でも読めば分かるから。それよりも僕は、再びこの地を訪れてからずっと、その間の24年をゆっくり振り返っていたのだ。

 当時学生だった僕は、まだ自分が日本に帰って音楽で食っていけるのかさえ分からなかった。確実なことは何もなかったけれど、一生懸命頑張ればなんとかなるだろうと楽観主義的な希望だけはあった。若さっていいなあ。
 一方、何も考える間を与えられず、僕にひきずられるようにして結婚した妻は、ベルリン行きの飛行機が成田を離陸する瞬間、頬に涙をひとすじ流した。彼女は僕についていくしか選択肢を与えられなかった。でもあれから二人の娘をはぐくみ、ここまで育て上げた。なんと言って感謝して良いか分からない。

 僕も妻もいろいろな出会いがあった。僕は悩んだり苦しんだりしたけれど、ここまで音楽家としてやってこれたのは神様が守ってくれたからだ。そうとしか考えられない。
 同時に、僕は自分にしか出来ない方法で全てを選択し生きてきた。去っていった人も少なくない一方で、僕に近寄ってきて助けてくれた人達も沢山いた。僕の人生は幸福に満ちていた。

 そんなわけで、アッシジの旅は僕の内面にふたつの事を与えてくれた。家族のきずなの再発見と、再びこの地を訪れるまでの24年間の自分を振り返ること。 それも神様の導きのような気がする。  

フランシスコの足どりを訪ねて
サン・ダミアーノ修道院

 アッシジの旅は僕にとって巡礼であり、精神の故郷への帰還であり、内面への探求なので、僕は観光案内人のように上手に紀行文を書くことは出来ない。でもこの中二日間で回ったところを、フランシスコの生涯を想いながら振り返ることは出来る。

 アッシジの街の西門であるヌオーヴァ門(新門)から、山肌を約1,5km下ると、聖フランシスコが最初にイエスのお告げを聞いたといわれるサン・ダミアーノ修道院に着く。イエスがフランシスコに語った言葉は、05サン・ダミアーノへの道
「教会を立て直しなさい。」
というものだった。
 フランシスコは崩れかけた教会をたった一人で修復し始めた。その後、彼に賛同する人達がしだいに集まり、フランシスコ修道会が形成されていったが、このサン・ダミアーノから全てが始まったのである。イエスの言葉は、同時に当時の堕落した教会そのものを立て直すようフランシスコに命じたと言われている。

 サン・ダミアーノ修道院の聖堂は、アッシジを訪れた者が真っ先に行く壮大なサン・フランチェスコ聖堂とは対照的に、何の装飾もない質素なもの。でも聖フランシスコの精神にはこの方が合っている。
 隣の建物は聖クララが息を引き取ったところ。僕達がここを訪れた時は、もう開館時間が過ぎようとしていた時だった。しかし、帰ろうとしたら突然雷が鳴って大粒の雨が降り始めた。僕達は仕方なく雨宿りをした。閉館時間は過ぎていたが、門番は入り口の柵を閉めはしないで、何人かの観光客と共に雨が止むのを待っていた。
06サン・ダミアーノの虹 しかし雨はなかなか止まなかった。それどころか、稲妻が空にギザギザな光を放ち、雷鳴がとどろき渡っている。

「でもこんな時はね、雨が止んでから虹が見えるもんなんだよ。」
と志保が言った。雨は降り続いていたが、反対側の空から太陽光線がのぞいていて、妙にあたりが明るかった。雨が小降りになった頃、志保は杏奈と連れ立って修道院を離れ、様子を見に行った。そして反対側を見て叫んだ!
「見て、見て!ほら虹が出ているよ!」
 虹は薄かったけれど修道院の屋根に美しくかかっていた。見ている内にしだいに濃くなってきて、まるでサン・ダミアーノ修道院が自らの屋根を虹で彩って、僕達の来訪を祝福してくれているようだった。
 僕は、前回志保と二人でブルターニュを旅したときも虹を見た。虹を見ると、なんか神様に祝福されているような気がするのは、僕がおめでたいからかな?ともあれ、サン・ダミアーノで虹なんて、滅多に経験できることではない。

サンタ・キアーラ(聖クララ)教会
 とてもがっかりしたことがひとつある。24年前ここを訪れた時、聖クララの遺骸は、まるで炭(すみ)のように黒ずんでいた。しかし、今回再び聖クララに会いにいったら、きれいに“加工”されていて、肌色になっていた。そんな馬鹿な!
 遺骸の損傷が進んだのだったら、見せなくすればいいのに。そんな見え透いた“加工”はかえって素朴な信仰心を愚弄するようで許し難いなあ。
 聖ベルナデッタもそうだけど、聖女の遺骸は腐敗しないなどという伝説ばかりが一人歩きするのは愚かなことだ。そういう奇跡も起こるかも知れないが、遺骸が腐敗したって、その人の信仰心や徳とは何の関係もないと思わなければいけない。人間はどこまでいっても目に見えるものばかり追いかけている。これでは聖クララも悲しんでいるのではないか。

カルチェリの庵(いおり)
 街の東北にあるカップチーニ門から、山道を4km行ったところに初期フランシスコ会のブラザー達が隠遁生活していたカルチェリの庵がある。タクシーを頼めば早く行けるのは分かっているが、僕達はフランシスコに習って徒歩で出掛けた。山の中腹に広がるオリーブ畑の間の道をひたすら歩く。平地でも4kmは近くないが、加えてずっと登り道だ。歩いている内にどんどん暑くなってきて、ジャケットを脱ぎペットボトルの水をまわし飲みしながら進む。うーん、しんどいけど健康的。眼下のウンブリアの平野が息をのむ美しさで広がっている。07カルチェリの庵への道

 カルチェリの庵は、かなり山の頂上近くにあった。山道の行程は約一時間。やっとの思いで着いてみると、そこは緑に囲まれ、人里離れてひっそりとたたずんでいた。空気がひんやりと冷たい。
 家内が何か言っているので見ると白い鳩があっちこっち飛び回っている。まるで奇跡みたいと最初喜んでいたが、どうやら観光客目当てに飼っているらしいと分かり、やや興ざめ。
 しかし、この質素な場所は、どんな豪華な教会にもない信仰の息吹がただよっている。清貧、貞潔、従順。この三つの誓いがフランシスコ会のモットーだ。濃い茶色の僧衣を結ぶ腰紐には三つの結び目があるが、それはこの誓いの印。こうした場所に身を置いていると、どんな素晴らしい説教を聞くよりもずっとフランシスコの精神が身近に感じられる。
08カルチェリの庵 聖フランシスコは、ここに基本的に住んでいたわけではないが、しばしばここを訪れ、弟子達と、あるいはひとりになって祈りと瞑想にふけっていたのであ る。

 奥の方の野外祭壇を借りてドイツ人の巡礼団がミサをあげていた。よく見るとみんな若い。ミッション・スクールの修学旅行かどこかの青年会かなんかかな。 ギター伴奏の聖歌が森にこだましていた。

 登るよりは楽だろうと油断していたらどうしてどうして。登り道は心臓が疲れるけど、下り道は足にくる。ほうほうの体でアッシジの街までたどり着いたら、膝がガクガクしている。お腹空いたので街中のピッツェリアに入る。昼真っから赤ワインを飲みながらピザをほおばり、みんなで部屋に帰ってしっかりお昼寝してしまった。なんと軟弱な三澤ファミリー!

聖フランシスコ臨終の地~アッシジよさらば!
 アッシジの駅は、平野の真ん中にあり、山の中腹に広がるアッシジ旧市街から約5kmもある。その駅の反対側にサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会がある。ここで聖フランシスコは1226年10月3日、弟子達に見守られながら息を引き取った。
 フランシスコの体には聖痕と言われる傷が残っている。彼はキリストを愛するあまり、キリストと同じ傷をその身に帯びることを神に願い、そしてそれはある日叶えられたのである。両手、両足の釘の差し貫かれた傷に加えて、脇腹の槍の刺し傷は、彼が死ぬまで決して癒えることがなかったという。09アッシジの街

 カルチェリの庵ですっかり疲れ果て、部屋で一眠りした後、僕達は最後の力を振り絞ってこの教会を訪れた。どっちみち駅で明日のナポリ行きの切符を買わなければならなかったこともある。

 聖フランシスコの臨終の場所にたたずむと、
「神の母、聖マリア。罪深い私達のために、今も死を迎えるときも祈ってください。」
というアヴェ・マリアの最後の一節が心に浮かぶ。自分は自分の臨終をどのように迎えるのだろうか。どうか、見苦しく心取り乱すことないように、聖マリアよ、僕をお守り下さい。

 こうしてアッシジの旅は終わった。明日はローマ、ナポリを通って、ソレントまで足を伸ばす。

(旅行編② 混沌の街ナポリ へ)




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