イタリア紀行文 旅行編②

三澤洋史 

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混沌の街ナポリ
 静かで瞑想的なアッシジからナポリに来た衝撃は大きかった。ナポリの駅前の喧噪は吐き気がするほどだ。車はクラクションをバンバン鳴らすし、怪しい商人が大声を出して、どこから見ても偽物のGUCCIのカバンなどを売っている。さすがオペラの国だけあって、イタリア人の声はよく通るが、ナポリでは特に街中の人達がまるで歌っているような発声法と声量で会話を交わしている。10ナポリの路地裏

 大通りから路地裏を見ると、洗濯物がまるで満艦飾のように風にひるがえっている。ドイツなどでは決して見られない光景だ。街中どこでもゴミが散乱しているし、狭い路地はどこも例外なく小便臭い。

 なんという混沌!なんという乱雑さ!
この街は秩序なくグチャグチャで狂っていて、あらゆる種類の悪徳と醜さを孕んでいるようだ。
「いやだ、こんなところ。」
と娘達は早くもうんざりしている。
「気をつけて!スリと泥棒の一番多い街だからね。」
人を見たら泥棒と思えと言うのは悲しいけれど、残念ながらどの人を見てもみんな泥棒のような顔をしている。いや、想像だけではなくて、実際に怪しそうに近寄ってくる人もいる。

息をのむ美しさサンタルチア
11サンタルチアからヴェスヴィオ火山を望む それが海岸沿いのサンタルチア地区に行くと印象が一変する。どこまでも青いナポリ湾には無数のヨットが優雅に浮かんでいて、その輝くばかりの白さが海に映えている。その向こう側にはヴェスヴィオ火山が雄大にそびえている。この息をのむような景色に触れると、先ほどの喧噪さえ許せてくるのだ。それがナポリの魔法。

船でソレントへ
 サンタルチアでおいしそうなピッツェリアを見つけて、そこでランチ。その後でソレント行きの船に乗った。遊覧船のように外に出られるのかと思っていたら、窓はあるものの室内の中に押し込められてしまった。しかも窓は潮風や波に洗われて汚れていて、とても写真やビデオを撮る気にもなれない。
 でも約一時間十分ほどの航海は悪くなかった。ポンペイの街を一瞬にして滅ぼしたヴェスヴィオ火山が近づき、その恐ろしい姿で僕達を威圧した後、遠ざかっていった。その後は高く切り立った険しい岸壁を見上げながらの航行。その一番切り立った入り江に船は入り込んでいく。12ソレントからナポリ海を臨む

 そこがソレントだった。ほとんど直角に近い崖の上に何軒も高級ホテルが建っている。そこからの眺めは絶景だろうが、高所恐怖症の人がベランダなどに立ったら、一分とていられないだろう。それほど岩の壁は険しく高い。その丘の上にソレントの街は広がっている。僕達は港のそばに宿を取った。ソレントまでたどり着けるか自信がなかったので、ホテルは予約していなかった。いきあたりばったり。残念ながらホテルの窓から海は見えない。ま、いっか。

 港に着いた人が街まで行くのはかなり大変だ。長い坂道と階段を登って、ちょっとした登山をしなければならない。しかしこの坂の途中からの眺めは素晴らしい。ここはナポリ湾から伸びた半島の突端。つまりもうほとんど地中海の外海なのだ。

 体が汗ばんできた頃、街に着く。街中に椰子の木があり、ソレントの街は南国情緒に満ちている。街の中心地であるタッソ広場では、テーブルを外に並べたレストランが何軒もあり、昼間からお客で賑わっている。大きな道路からちょっと入ると、昔の日本の横町くらいの極端に狭い路地にいろんな店が並んでいる。そこに溢れる人、人、人!
13ソレントの夜ナポリのように人々の話し声は大きいが、混沌とした印象がないのは、街が小さい分、どこか善良さと落ち着きのようなものがあるからかな。

 この街はいいなあ。僕は大好きになった。僕は、ドイツに留学したし、一番得意な外国語はドイツ語だけれど、メンタリティーはどう考えてもラテン系だ。だから妻や子供達があれだけナポリを嫌っても、吐き気を催しながらなんとなくその喧噪に親近感を覚えるし、ソレントに至っては、喧噪と落ち着きのバランスが丁度僕好みなので、本気でしばらく住んでみたいと思うほどだ。

ローマへ
 4月23日、日曜日。本当は朝食をゆっくり取ってからローマに向かおうと思っていたが、妻が、日曜日は正午にバチカンで教皇の挨拶があるから、絶対に正午までにサン・ピエトロ広場に行くんだと張り切っていたし、娘達も妻の話を聞いて本物の新教皇に会えるなら行ってみたいと言うので、朝六時過ぎにホテルを出る。昨晩のおいしいワインがまだ体に残っている。
 今度は船でなくヴェスヴィオ周遊鉄道に乗ってみる。ナポリ湾の海岸沿いに列車は進む。でも、海のすぐ近くをいつも走るわけではないので、景色は期待したほどではない。船の方がよかった。

 ナポリでカルチャー・ショックをすでに受けていたので、ローマはそれよりは随分落ち着いた良い街に見えた。
昨日、アッシジからローマを通ってナポリ~ソレントに行ったが、その際、ソレント一泊分の最低限の荷物を持ち、あとの荷物はまとめてローマの荷物預かり所に預けた。ローマに着いてまずその荷物を取りに行き、またいきあたりばったりでローマ・テルミニ駅の近くでホテルを探した。
 24年前は、この方法が当たり前だったが、この歳になってくると、やはりホテルは予約していた方がいいね。理想的なホテルを探せる確率はかなり低い。泊まれればどこでもいいやと思っていた若いときと違って、理想も高くなっているからね。ともあれ、そこそこのホテルは取れたので、荷物を預けてヴァティカン市国に向かう。

教皇の祝福を受けながら感じたこと
 ヴァティカンに向かうバスは、信じられないほど混んでいた。これではまるでインドだ。でもそのバスの乗客が、実はみんな僕達と同じヴァティカンを目指していたことは、サン・ピエトロ大聖堂に近づくにつれ増えてくるおびただしい人の群れを見て分かった。
「う、まじ?こんな沢山の人がパパ様を見に集まってきているの?」
と次女の杏奈はびっくりしている。
「これはまさに、ザ・カトリックだね。」14サン・ピエトロ広場

 サン・ピエトロ広場に入ると、のぼりや横断幕を持ったグループや、すでに歌を歌っているグループなどで溢れかえっていた。僕達のすぐ近くのグループが歌い出したので聞くと、
「ベーネデット!ベーネデット!なんとかかんとかチャチャチャッ!(手拍子)」
と勝手に節を付けて歌っている。ベネデットとは教皇の名前、すなわちベネディクト16世のことだろう。ぬあんじゃコリャ!
 後ろの方からは軍楽隊のマーチが近づいてきた。キリストを描いた大きなプラカードを掲げている。
「まるでサッカーのワールド・カップだね。」
と杏奈。
「ちょっと、なんかみんな勘違いしていない?」
と志保。

 正午が近づいてきた。隣のおばあさんが僕達に向かって、
「あと三分だよ。」
と嬉しそうにいった。
 そして鐘が正午を告げた。広場を埋め尽くした群衆から波のような歓声が上がった。サン・ピエトロ大聖堂の右側の建物の、右から二番目の窓からベネディクト16世教皇が顔を出した。うわあ、遠い。人がいるのが分かるだけで、顔の表情なんてとてもとても分からない。いくつものグループが横断幕を高く掲げたので、後ろの群衆はあわてて横に移動した。

「復活祭後の最初の日曜日。イエス・キリストの復活を心から祝いましょう。」
というような言葉で始まった教皇の挨拶は約二十分にも及んだ。最初の話の後、急にフランス語で話し始めたので驚いた。広場の中のある一群が歓声で答える。 それからドイツ語、英語などで教皇が話し始める度に、どこかの一群が歓声を挙げる。
「パパ様のフランス語上手だね。」
と志保が感心している。
「これは巡礼団達が、あらかじめ法王庁に申し込んでおいて、お言葉をもらって祝福を受ける儀式よ。」
と妻が言う。なあんだ、そういうことなのか。

 教皇がイタリア語で話し始めた途端、広場中の群衆がひときわ「ワァー!」と大きな歓声を挙げた。そしてまた次々とイタリア各地の巡礼団に挨拶を送っていったが、僕達のすぐそばの、例の「ベーネデッタ、チャチャチャッ!」のグループは、なかなか呼んでもらえないので、次かな、と期待をかけてはため息をついている。
「あははは、コンクールの発表だねこれは。このグループは落ちました、なんてね。」
と杏奈が喜んでいる。

 結局、この巡礼団は一番最後に呼ばれた。その瞬間は物凄かった。彼等が送った歌のプレゼントがあまりに長引いたので、教皇は一時挨拶を中断しなければならなかった。しばらくたって静まったのを見計らって、教皇は、
「グラーツィエ(ありがとう)!」
と一言言って話を続けた。教皇になるのも楽じゃないな。

 僕自身は、教皇を同じ人間として尊敬はするが、まわりの群衆のように、まるで神や聖人のように崇める気にはなれない。でもこの光景を見ていると、やはりある種の感動を覚える。教皇を見て感動したというよりは、教皇を崇める群衆を見て心を動かされたと言ったらいいだろう。凄いな。これだけ沢山の人がこれだけ素直になれるんだ。

 人は、心の中では常に誰かを崇めたいという欲求があり、その欲求が満たされているとき、人は健全な精神を持ち得るのだ。学問の世界では、確かに懐疑的精神こそが探求の源泉とされているが、その前にヨーロッパでは、基本的に全ての文化はキリスト教的精神により包まれ、支えられている。その土壌を持たない日本人は、気をつけないとどの民族よりも冷たい懐疑主義に陥りやすいのだ。

 それと、教皇の役割について初めて分かったことがある。それはこういうことだ。どんなにキリストが素晴らしいからといっても、僕達はキリストに直接会うことは出来ない。 勿論祈りの中でとか、精神的にはという話はまた別だ。でも、人々は二千年前のキリストを求めると同時に、今の時代を同時に生きていて、僕達の時代の問題について考え、行動し、なによりも今の僕達とインターラクティブにコミュニケーションを取れる指導者を求めているのだ。先ほどの巡礼団のように、横断幕を教皇が見たり、彼等のパフォーマンスに反応するといった、たったこれだけのことだけど、信じる者達にはとても大切なことなのである。だから教皇は、天皇ではないけれど“カトリックの象徴”として、その存在自体に意味があるのである。

ラテラーノ大聖堂~旅の終着点
 教皇の挨拶が終わった後、僕達はそのままサン・ピエトロ大聖堂を参拝しようと思ったが、皆考えることは一緒で、もの凄い群衆が一気に入り口に殺到している。これはいつになったら入れるか分からないし、どっちみち夕方にもう一度来てミサに出席しようと思っていたので、一度バチカンを離れ、僕にとっては今回の旅の本当の意味での終着点である、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂に行くことにした。
 
 ここは、初めてキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝が314年に建設し、法王に寄進したといわれる教会で、ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂が建てられるまでは、ここがカトリック教会の総本山となっていた。ちなみにサン・ピエトロ大聖堂は、1452年にニコラウス5世により建造の命令が出され、この資金調達のために免罪符が発行され、これがルターに始まる宗教改革の直接の原因になったわけである。

15ラテラーノ前の広場 アッシジの聖フランシスコは、修道会を承認してもらおうと、はるばるローマまで来て時の教皇インノケンティウス3世に謁見しているが、多くの人が誤解しているように、それはヴァティカンで行われたのではなく、このラテラーノ大聖堂であったのである。
 この謁見は感動的で、聖フランシスコに心打たれた教皇はその身をかがめ、聖フランシスコの足に接吻したと言われている。

 このラテラーノ大聖堂の正面広場の前に、聖堂を見つめながら両手を広げて、
「ついにローマに来たぞ!」
と言っているような姿の聖フランシスコの像があるのだ。となりには疲れ切った彼の弟子達が倒れている。そこで僕も両手を広げて写真を撮ってみた。ここは24年前にも来ているのだけれど、今回の旅では、また全然違った感動が僕を支配した。
 ここが僕の今回の“聖フランシスコを求める旅”の終着点であり、それから夕方のサン・ピエトロ大聖堂でのミサに出席すると、本当に全行程が終了するのである。

サン・ピエトロ大聖堂でのミサ
 教皇の謁見のにぎにぎしさとは打って変わって、ヴァティカンといえども夕方のミサはむしろ淡々と進められた。聖歌はそんなに大きくはない移動式のパイプオルガンで伴奏されたし、大聖歌隊があるわけではなく、ひとりのバリトン歌手が全ての聖歌を先導していた。でも僕にとってはむしろそっちの方が良かった。
 大きな催しや公式のミサは、おそらく今でもラテン語で行われるのではないかと思うが、ここではイタリア語で行われた。アッシジでは英語だったので、考えてみるとイタリアに来て初めてイタリア語でのミサに出席したわけだ。イタリア語でのミサは、ラテン語にも似ているが、今イタリアの街角で聞こえる言葉なので、とても親しみやすく庶民的な感じがする。言っていることの意味もよく分かる。

 別に聖体(ホスチア)を食べたからといって、即霊験あらたかというわけでもないが、ヴァティカンで受けた聖体はなにか特別な味がした。
「あなたはペトロ(岩)である。この岩の上に教会を建てなさい。」16ローマよさらば
と言ったキリストの言葉を本当に文字通り守って、ペテロが殉教した場所の上にサン・ピエトロ(聖ペテロ)大聖堂が建っている。聖ペテロは初代のローマ教皇であり、その後に、今日まで歴代の教皇が面々と続いているのである。もうそれだけで、ここは特別な場所なのだ。その特別な土地の気が僕には感じられる。きっとこれまで人々がここを神聖な場所としてずっと守ってきて、おびただしい量の信仰心が、一種の霊的磁場を作り出しているからだろう。

 ヴァティカンは、やはりかけがえのない地であった。
「生きている間に、もう一度ここに来たい。」
と思いながら、僕はここを離れた。

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