アイーダ開演間近~再びペンライト攻防

三澤洋史 

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フリッツァとルーチェ・ロッサ
 「アイーダ」の練習が始まった。指揮者のリッカルド・フリッツァとは三年前の「マクベス」以来の共演だ。その時、フリッツァと赤いペンライトのことでやりあったことがなつかしい。彼はとにかく自分だけを見て歌って欲しいナルシストだ。一方僕は、合唱団がオケとずれたりせずにきちんと指揮者の思ったテンポや表情で歌えたら、結果的には指揮者にとってもいいはずだと信じて、ペンライトで振ることを止めなかったのだ。そこで、かつてホームページで書いたような騒動となった。(リンク参照)

 あの時、僕をちっとも助けてくれなかった元芸術監督ノヴォラツスキーは、折りあるごとに僕をからかって、
「今度一緒にフリッツァの誕生日プレゼントに赤いペンライトを送ろうよ。」
なんて言っていた。もう、人の気も知らないで。

 先日、藤原歌劇団の「リゴレット」公演をフリッツァは振ったらしいが、その時も合唱指揮者がペンライトを振るのを許さなかったと聞いている。
「また今回も、場合によっては大喧嘩覚悟で練習に臨まなければならないな。」
と思いながら稽古場に行くと、フリッツァは僕の顔を見るなり、
「おっ、luce rossa(赤い光)が来たな。」
と言う。おいおい、いきなりルーチェ・ロッサはないだろう。
「あなたがペンライトを嫌いなのは知っているけど、こっちも大事な合唱がずれたくはないのでね。」
と早くもけん制をかけておく。

 必要以上の威張りたがりと、無礼なものの言い方をのぞけば、フリッツァはとても良い指揮者だ。やりたい音楽は明快で、緊張感に溢れている。指揮者などというものは、我が儘じゃないと出来ない職業だし、またきちんと仕切ってもらわないとこちらも困る。それに僕は、若い芸術家達の無礼さや我が儘にはかなり寛容だ。むしろ嫌われることを恐れて変に慇懃になったり、本当はもっと練習したいのに遠慮して早く終わらせてみんなのご機嫌を取ろうとするような臆病者は嫌いだ。僕は、戦わない芸術家は認めない主義だ。
 だからフリッツァがペンライトのことで僕とやり合ったからといって、僕が彼に対して否定的な評価をしていると思ったら大間違いだ。僕は彼を最大限に評価しているし、彼は実際この「アイーダ」においても、素晴らしい統率力を見せている。

 だが、それとペンライトの話は別だ。僕は、僕の合唱指揮者としての責任において、合唱団がより良い状態で歌えるよう環境を整えてあげなくてはならない。同時にそのことによって指揮者のやりたい音楽がなるべくストレートに客席に伝わるよう配慮をしたい。
 「アイーダ」の凱旋行進の場面では、あれだけ人が溢れているのだから、舞台後方の合唱団員から、自分たちの床面より低いオケピットの指揮者など見えるわけはない。舞台両側にしつらえたモニター・テレビでさえ見えない者は少なくない。そんな不安定な状態で、踏み込んだ表現が出来るわけがない。フリッツァの意図する音楽も、ペンライトなしでは実現できるどころか、歌い出すことすら怖くて出来ない状況が予想される。だから、彼がなんと言おうと、ペンライトが必要ならば、僕は振らなければならない。

試行錯誤
 いろいろ考えていいことを発見した。バイロイト劇場のように、舞台両側にある照明用のポータル・タワーに登って、両側から振ればいいんだ。これなら指揮者が振り向いても見えないし、第一、凱旋行進の場面では、合唱団は舞台両側からそれぞれ中心に向かって歌うことが多いので、かなり有効だ。
 そこで舞台稽古に入った時、僕は二人の副指揮者にお願いして、両側ポータル・タワーに登ってもらうことにした。勿論、マエストロには内緒だ。
 結果は良かった。このままでも出来なくはない。ただどうしても人に隠れて両サイドのペンライトが見えない人達が少なからずいる。また、舞台後方の高台に登っている高官達は、ペンライトを見ることは出来なくはないのだが、視線が横に移ってしまうので望ましくない。だからといってオケピットの指揮者を見ようとすると、今度は視線が極端に下に移ってしまう。彼らがまっすぐ見ている視線の先には、いつも僕が振っている客席後方の監督室がある。両サイドのペンライトは引き続き置いておくとして、それにプラスして、やはりどう考えても客席後方からの僕の赤いペンライトがあった方がいいという結論に達した。

戦闘開始
 そこで僕は決心し、マエストロの所に行った。
「何カ所か合わない所があるのはあなたもご存じですよね。でも今のままではこれ以上合いませんよ。私はやっぱり後方からペンライトで振った方がいいと思います。」
「ペンライトは嫌なんだ。俺だけを見るのだ。」
「知っていますよ。でも、舞台の下にいるあなたから、合唱団員全員などとても見れないように、合唱団員からも見えないのです。あなたの姿のみならず、自分の前に立ちはだかっている人のためにモニターも何も見えない合唱団員がどうやって歌い出すか知っていますか?周りの団員が歌い始めたのに合わせて歌うことしか出来ません。つまりその人達は遅れて歌い始めるので、当然他の人達の足を引っ張ります。あなたはさっき『遅れている!』と叫んで何度か手を叩いていましたが、まさにそれはそういう人達の仕業です。彼等をなんとかしない限り、今の状態は改善しません。」
「演出を変えることは?」
「ゼッフィレッリの演出を?今更出来るわけないでしょう。」
「改善の鍵はお前のペンライトしかないと言いたいんだろう?」
「そうです。」
「そうくると思ったよ。ちょっと待て、もう少し様子を見させてくれ。」
「では様子を見ましょう。」
と言ってフリッツァとは別れた。さあ、この続きがどうなるか、来週のお楽しみだよ。

 もしかしたら何度か練習していく内に、舞台後方の赤ランプなしでも合ってくるかも知れない。その時はそれでいいのだ。でも、どうしても合わない場合、僕は自分の合唱団を守るためにフリッツァと何度でも戦うだろう。でも誤解しないでいただきたい。これは喧嘩ではない。ディスカッションだ。それは、劇場ではごくごく当たり前に起こる、より良い公演のための産みの苦しみであり、切磋琢磨なのだ。

人多すぎの舞台
 それにしても舞台上に人が多い。ヴェルディは、中期の作品以後、大規模なグランド・フィナーレを持つグランド・オペラに傾倒していったが、その中でも「アイーダ」はグランド・オペラの枠をも超え、スペクタクル・オペラと言われている。(「アイーダに関しては京都ヴェルディ協会で行った講演予稿集をご覧ください
 今回のプロジェクトにおいても、合唱団は107人。そして助演はなんと約150人。それにダンサーと子供たちとで、第二幕第二場凱旋行進の場面では、総勢300人近くが舞台に登場することとなる。それと馬が二頭。なんというオペラだ!
 しかも演出は、かの不滅の傑作映画「ロミオとジュリエット」の監督フランコ・ゼッフィレッリ。舞台美術は、古代エジプトのファラオの神殿を歴史的考証に従って忠実に再現した、まさに息をのむような素晴らしいもの。歌手達も、今をときめくノルマ・ファンティーニをはじめとする超豪華メンバー。それにクレオパトラやツタンカーメンのようなきらびやかな衣装を着た人達が行き交うのだから、もうため息が出てしまいそうなのだ。
 ちなみに、この原稿を読んで行ってみたいと思っても、ごめんなさいね、無理です。チケットは発売日に即日完売。しかも2時間くらいで売り切れたそうだから。当日券はもしかしたら買えるかもしれない。


 練習予定表に“馬の場当たり”と書いてあってウケたのだが、オペラ劇場楽屋に足を踏み入れると、僕たちの名前が入っている着当盤のお終いの欄に、ダン・イット・コンテスタントとチェイン・オブ・ゴールドという見慣れない名前があった。馬の名前だ。生意気に馬様ったら着当盤に名前が与えられている。その上を見ると騎手が二人、それと馬番の名前があった。
 おもしろいので休み時間に馬を見に行った。舞台の裏手の画工場に、馬のための楽屋がしつらえてあった。そこに茶色のダン・イット・コンテスタントと見事な白馬のチェイン・オブ・ゴールドがいた。二頭ともとてもお行儀が良くおとなしい。顔を撫でると気持ちよさそうな顔をしている。
 特に茶色の馬は、サイズこそ全然違うが、僕の家のミニチュアダックスフントのタンタンによく似ているので妙に親近感が湧く。この子達、あんな人で溢れかえっている舞台で、興奮して暴れもせずに言うこと聞けるのだから、よほど仕付けが行き届いているのだろう。もしタンタンが同じ舞台に登ったら、もう人の多さに興奮して収拾がつかなくなってしまい、大声でワンワンと啼きながらそこいら中に小便をちびってしまうだろう。
 凱旋行進の場面のピアノ舞台稽古では、この馬たちは颯爽と駆け足で登場して来た。もう惚れ惚れするくらいカッコ良いのだ。

僕たちの危機感~豪華絢爛な舞台の陰で
 こんな素晴らしい舞台美術に囲まれているから、放っておいても素晴らしい公演になるに違いないと皆さんはお思いだろう。でも僕の中にはとても大きな危機感がある。だからみんなに向かっていつになく強い言い方でダメ出しをする。
「いつの間にかセンプレ・フォルテになっているよ。せっかくきめ細かく作ったのにつまらない音楽になっている。頑張り過ぎないで、言葉を立てて表情を描き分けて!」
 僕には合唱団員達の気持ちが手に取るように分かる。道具が大きくて素晴らしい。だから不安になる。自分の声が届かないのではないか・・・・。そこで自然に自分の許容範囲以上の声を出してしまう。すると音色はきたなくなる。言葉は不明瞭になる。なにより全部大きい声になって音楽上のメリハリがなくなってくる。

 再演演出している粟国淳君の顔つきも硬い。彼も分野は違うが僕と同じ事を考えている。歌手達に向かい、口を酸っぱくして何度も言う。
「もっと気持ちを入れて動かないと、君たちは道具に負けているよ!」
大道具がどんなに立派でも三分で飽きる。それを飽きさせないのは人間が舞台で動いて作り出すエネルギーだ。「ラ・ボエーム」であれだけ群衆を動かし、エネルギー溢れる舞台を作った粟国君にしてみると、大道具が立派なだけに、それに呑まれてしまっているみんながじれったいのだ。人間は、動く時には『想い』から動く。その『想い』がエネルギーを作り出す。

 僕も粟国君も、思っていることは一緒だ。つまり“そのへんにある”あるいは“人々がこんなものだと思っている”「アイーダ」を超えなければという危機感だ。
 合唱団にとって、人が沢山いるということをのぞけば、「アイーダ」を演じることは、他のオペラよりも簡単だ。分かりやすく言えば、登場して定位置につきさえすれば、あとはそこで歌えばいいのだ。それと音楽的にも、仮になんの表情もつけないで全部フォルテで歌いて切ってしまっても、多分聴衆は「迫力満点、凄い、凄い!」で終わってしまうかも知れない。
 でもそれではやっている僕たちがつまらない。ヴェルディのスコアにはもっといろいろなことが書いてある。もっといろいろな情念がうごめいており、いろいろな“描き分け”を熟練したヴェルディはしているのだ。
 聴衆の大半は舞台を見ただけで満足するだろうが、僕はそうした人達に、
「あれ?このヴェルディはなんか違うな。」
と思わせたいのだ。変な言い方をすると、ヴェルディは「アイーダ」を、みんなが思っているよりもっとずっと繊細にきちんと作っている。そこを表現したいのだ。きっと粟国君も同じ想いなのだ。

 こうしたスペクタクル・オペラが人々に夢を与えるのは確かだけれど、もうこのようなオペラの時代は終わりつつあると僕は思っている。もし歌手達が大道具の上にあぐらをかいて大味な演技や音楽を披露したら、グランド・オペラだけではなく、オペラという分野そのもの終焉を導き出してしまうことにもなり兼ねない。
 オペラが次の時代に生き残っていくためにも、この「アイーダ」公演をどのレベルで行えるかは、我々の賭なのだ。

「これだからオペラって金ばっか使ってつまらないのだ。」
と思っている演劇的にシビアな客を、
「おっ!演劇的に見ても面白いな!」
と思わせ、
「ヴェルディの音楽は、こんなだからバッハに比べて大味で退屈だ。」
と思っている音楽的にシビアな客を、
「おっ!案外繊細な音楽なんだな。やるな!」
と思わせるのが、僕たち舞台人のプライドだ。

芸術家は常に戦っていなければならない。



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