それでも平和を願う・・・

三澤洋史 

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それでも平和を願う・・・
 やはり恐れていたことが起こってしまった。イスラム国を名乗る武装集団に拘束された二人の日本人のうち、湯川遙菜さんはすぐに殺され、残った後藤健二さんは、多額の身代金を要求されたり、ヨルダンに収監中の女性死刑囚の釈放と引き替えの要求など、条件を様々にたらい回しにされた挙げ句、ヨルダンをも巻き込んだ国際紛争の舞台の真っ直中に引っ張り出されてしまった。最後には「アメリカに荷担した裏切り者」のような扱いを受け、「この先日本人が被る悲劇の初穂」のような威嚇を受けながら殺害されてしまったのである。

 この最悪の結末に対する安倍首相のコメントは、
「非道、卑劣極まりないテロ行為に強い怒りを覚える。テロリストたちを決して許さない。その罪を償わせるために国際社会と連携していく。日本がテロに屈することは決してない」
というものであったが、僕はこれらの言葉に少なからぬ違和感を覚えた。というのは、こういう言い方は、どこまでも力で説き伏せようとするアメリカが喜びそうな言葉であり、日本人の心情にはどこかそぐわないような印象を受けたのだ。
 今回の事件とその顛末に、集団的自衛権の行使容認や対イスラム国という目的の資金援助など、アメリカをはじめとする有志国と足並みを揃えようとする日本政府の政策傾向が影響を投げかけているのは否定出来ないであろう。
 殺害映像の中での声明でも、こう言われているという。
「安倍よ、勝ち目のない戦いに参加するというおまえの無謀な決断のために、このナイフは健二を殺すだけでなく、おまえの国民を場所を問わずに殺戮する。日本にとっての悪夢が始まるのだ」

 これまでの常識では、日本が平和国家でいられるのは、「アメリカの庇護」があるから、ということであった。しかし、核兵器をも含むアメリカ軍事力による抑止力がプラスに働くのは、ある国が別の国に宣戦布告して攻めていく正々堂々とした戦争の場合である。もうそのような戦争は時代遅れなのではないだろうか。
 今世界で起きている“テロという新たな形の戦争”においては、「アメリカの抑止力に頼ることが日本の安全につながる」という幻想は棄てなければならない。むしろ安倍総理の、
「その罪を償わせるために国際社会と連携していく」
というスタンスは、「イスラム国」のテロリスト達の反日感情を新たに駆り立て、
「日本は、これまではテロ攻撃の圏内に入っていなかったが、そういうこと言うなら遠慮なくやるぞ」
という決意をかためさせてしまうことにつながるのではと恐れる。
 日本に攻めて来て爆弾を落として、などという面倒くさい方法をとらなくても、今後はどこの誰でもいいから手当たり次第日本人をつかまえて、その映像を世界に発信し、脅迫し殺害すれば、それだけでイスラム国の威信が保たれるのだ。こんな簡単なことはない。だから安倍総理がああいう強気の発言をして良いことは何もないような気がする。

 ではどうすればいいのか?ここまで絡まってしまった糸を解きほぐす手はないのであろうか?それどころか、アメリカのような国が、またまた国の威信を賭けてイスラム国の根拠地を空爆するような力ずくの処置を行うなら、糸はますます絡まるばかりだろう。
 そもそもこうなってしまったのは、やはり(その前からいろいろはあったが直接には)イラク戦争が大きな節目だったような気がする。“暴力で説き伏せる”という行為を最初に行ったのは、むしろアメリカ側であったのだ。しかも大量破壊兵器という開戦の大義そのものが存在しなかったのに、サダム・フセインの逮捕及び殺害という事を実行してしまったことが、どれだけのアラブ人の心を逆撫でしたことだろう。アメリカもアメリカなのだ。

平和は遠い。
僕は悲しい。
しかし、これだけは言いたい。
やっつけろイスラム国、という風に盛り上がることだけは避けなければいけない。憎悪の連鎖からは何も生まれない。
前回も言ったが、平和な世界を作り出すのは、神ではなく、我々人間のひとりひとりの手によってなのだ。
そしてその手には、イスラム教信者あるいはアラブ人の手も含まれるのである。イスラム教の人達とも手をつながなければ世界平和は実現しないのだ。
いや、違う!「イスラム教の人達とも」ではない!今こそ「イスラム教の人達と」本当に手をつなぎ合う共生の道を探るべきなのだ。
この流れに反対するいかなる方法によっても、平和は決して実現しない!平和はひとりで作るものではないから。

僕の心は、世界中の杏樹(僕の孫)が微笑むまで本当にしあわせになることは出来ない。

西の魔女が死んだ
 スキーに行く時には、好んでなにか宗教的な内容の本を読むことは前にも書いた。1月29日木曜日。明日ガーラ湯沢に滑りに行くために何かふさわしい本ってないかなと本屋で探す。ふと目にとまったのは、梨木香歩(なしき かほ)著の「西の魔女が死んだ」(新潮文庫)。
 このタイトルは一時期よく聞いたなあ。読んだことはないなあ。どれどれどんな本だ。パラパラとめくってみる。なるほど、魔女というのは主人公の中学生まいのおばあちゃんなんだな。外国人で、日本人であるまいのおじいちゃんと結婚してまいのママを生んだというから、まいにも英国人の血が4分の1だけ入っているわけだ。
 ここまで立ち読みをして迷わずレジに持って行った。次の30日、大宮から出発した上越新幹線MAXたにがわ号の中でワクワクしながら本を開く。あっという間に読んでしまいそうなので、途中でメガネやゴーグルに曇り止めを塗ったりしてわざと中断させ、帰りの電車で読み終えた。最後のページ、「アイ・ノウ」に涙が出た。最近やたらと涙もろい。
 とっても素敵なおはなし。自然と共存して生きるおばあちゃんとの生活に、不登校のまいがだんだん癒されていき、同時に魔女修行といって意志を貫徹していく生き方を学んでいく。まいはおばあちゃんから沢山の「大切なこと」を教わる。

 よく考える。こういう小説こそ大人が読むべきなんだ。なのに大人って、なんであんなドロドロした話ばかりが好きで、こういう「忘れてはいけない」話から意識をそらすのだろう?そして、どうして、こういう話に少年文学などのカテゴリーを押しつけて、自分たちには関係のない話だと心の扉を閉ざしてしまうのだろう?

 おばあちゃんは、僕とおんなじことを考えている。3年前の2012年の「今日この頃」3月5日の「誕生日の遺言」で、僕はこう書いているんだ。

いつの日か、もし僕がみなさんよりも先に死んだら、お葬式はどんな形でやってもいいのだけれど(僕は自分の肉体には全く執着がないのです)、みんなが集まった時に歌って欲しい曲があります。
  それはバッハ作曲「ロ短調ミサ曲」のラストのDona Nobis Pacemです。僕はこれが大好きなのです。それに「我らに平和を与えたまえ」という言葉は、カトリ ック教会あるいはキリスト教だけでなく、人類共通の究極目的ではないですか。また、この曲だったら、集まったプロの人も初見で歌えるのではないかな。八分音符を急がないでね。
  死んでからもし本当にあの世があって、僕の魂が目覚めていたら、このDona Nobis Pacemの演奏の間に、僕からみなさんに何らかのサインを送ります。みなさんが怖がらないような方法でね。でも出来るかなあ。まあ、神様に頼んでみるからね。
 いいなあ、おばあちゃんにはそれが出来たんだ。とにかく、まだ読んでない人はすぐ読んで下さい。どっちみちすぐ読めますから。

あなたは子どもに負けている
 子どもって、見ていると本当に凄いなと思う。なんでも自分の身体で体験してみないと気が済まないのだ。孫の杏樹(1歳2ヶ月)を連れて外に出る。すると陽の当たる広い道路に行かずに、階段や段差のところで何度も何度も登ったり降りたりしている。
 どう足を出したらうまくいくのか?反対に、どのように足を上げるとバランスが崩れるのか?飽きずにずっと試している。どんなささいな違いでも習得し、体に覚え込ませたいように見える。昨日まで出来なかったことが、目の前で出来るようになっている。その喜び!杏樹の視線の先には、感動の洪水の未来が果てしなく広がっている。
 大人になると、当然のごとく歩行にも階段を登ることにも何の困難もなくなる。肉体は無意識に動き、自分で自分の肉体を意識することがなくなる。同時に感動もなくなる。最近までの僕に最も欠けていたのもその感動であった。
 でも、今は違う。水の中で泳いでいる時、入水するときのほんのちょっとの角度が違うと、ただちに推進力に影響する。コブの頭でターンした後、ちょっとでも腰のひねりが足りないと、うまくズラすことが出来ず、板が必要以上に加速してしまう。レガートのフレーズを指揮している時、肩甲骨から腕を動かす意識がちょっとでも抜けると、フレーズをきれいに仕上げることが出来ない。これらの身体意識は全てつながっていて、微細なレベルでの違いまで認識出来る。僕の意識は研ぎ澄まされている。
 それと同時に、どんな簡単に見えることでも、完璧をめざしたら果てがないということにも目覚めてきた。緩斜面ゲレンデでのターンひとつとってもそうだし、指揮している時の、腕のちょっとした動きの変化とオケのサウンドとの相関関係に精通することもそう。 でも、完璧をめざす人にだけご褒美は与えられる。つまり、それに少しでも近づけると無上の喜びが得られるのだ。大切なことは、「喜びとは進歩の中にある」ことだ!
 
 だから今の僕には杏樹のひとつひとつの感動が分かる。じーじは杏樹の身体意識と競争している。その意味で、杏樹はじーじにとって対等な“腹心の友”なのだ。考えてみると、僕は杏樹を自分より下に見たことがない。むしろ、
「子どもって凄いんだな!」
と感心させられることばかりだ。子どもは決して「未熟な大人」なんかじゃない。それどころか、大人が忘れてしまったものをいっぱい持っている。

 子どもはよくボーッとしている。これも実は凄いことなんだ。それと関連して、みなさんに大事なことを言おう。僕はまだガラ携を使っている。あんなにかつては“新しもん好き”だった僕が・・・。なんでスマホにしないのかっていうと、今の携帯が気に入っていて、これが壊れるまで使おうと思っていることと、それと、もうひとつ・・・。
 見てごらんよ、電車に乗って座席に座っている人、あるいはつり革につかまって立っている人!みんなスマホをいじっている。あんな風になりたくないんだ。あれね、いっそのことみんなやめても何の影響もないよ。
 それどころか、僕はみなさんに奨める。何も用がなかったら、いっそのことボーッとしていよう。最近の僕はそうなんだ。以前は活字がないと一瞬たりとも間が持たなかったが、カテドラルのミサに通うようになってからというもの、“沈黙の時間”を愛するようになった。また水中で泳いでいる時、ゲレンデでリフトに乗っている時、長距離を自転車で走行している時も、ある意味ボーッとしているわけだ。
 かつては、何か知識や情報を詰め込んでいないと、自分が空虚になってしまうような不安感があった。でもそれは幻想だ。いや、むしろ、自分を徹底的に空虚にしてみよう。すると、その時こそ、それまで見えなかったものが見えてくるのだ。それが何かって?うふふふ、言葉では言えないなあ。
 ひとつだけ言えることは・・・これを知っている人には“内側から輝くような静けさ”がある。一緒に居る人を安心させるやすらぎがある。そして今の僕には分かる。僕の目の前に立っている人が、これを知っているかどうかがね。これを知っていないあなたは、子どもに負けている。言っておくが、ほとんどの人は負けているんだよ。



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