「アイーダ」立ち稽古始まる

 

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

「アイーダ」立ち稽古始まる
 稽古場に行くと、あまりの人の多さに驚く。特に第2幕第2場の凱旋行進のシーンでは、合唱団の他におびただしい助演やダンサー達がひしめき合っている。まさにスペクタクル・オペラなのだという実感を持つ。

 マエストロのパオロ・カリニャーニは、新国立劇場初登場の時から即仲良しとなり、水泳の話題で盛り上がったりしていたが、今回は、数ヶ月前に左肩の筋を痛めて手術を余儀なくされたという。かなりスリムになったので訊いたら、7キロ痩せたということだ。
 それで、稽古場でもリハビリをしている。エアロバーという長い棒をビュンビュン振り回していたり、ボールを壁に当てて背中でグリグリしたり、結構笑える。

 そのエアロバーは、彼が来日してから劇場のマネージャーにアマゾンで取り寄せさせたもので、僕が興味を示して、
「買おうかな」
と言ったら、
「『アイーダ』の公演が終わって帰る時になったら、もういらないからお前にあげる。家に帰ると同じのがあるんだ。だから買わなくていいよ」
と言った。
 そんなエクササイズを、演出補の粟国淳(あぐに じゅん)君が真剣に立ち稽古をつけている最中に、あまりに一生懸命やっているので、合唱団のメンバー達も笑っているけれど、一度音楽が始まったら、彼の指揮には、何の衰えの跡も見られない。それに彼のテクニックは鮮やかで、曲想も明快ならば、それを伝える技術も一流だ。
 やっぱり、その点においては、僕が最近スポーツをやりながら気づいてきた、“目的に向かうための最短距離としてのフォーム”を、彼も持っているということだ。音楽の目的は“表現”であるが、その実際的な運動に関しては、無駄をどんどん削ぎ落としていくアスリートの運動力学を身につけている。むしろ彼は、その生き証人だと言ってもいい。

 時々、ヴェルディのトラディションであるテンポの揺れを、ちょっとオーバーにつけるので、案外古いタイプの保守的な指揮者かと思ってつい微笑んでしまう。
 とはいえ、全体のテンポ運びは快活で小気味良い。
「ヴェルディはサクサクといくのが好きなんだ」
というので、
「勿論、僕もそう思う。停滞するヴェルディなんてヴェルディじゃないよね」
と答えて意気投合した。
 彼は、自分のことをインターナショナルな指揮者だと思っているので、僕がイタリア語で話しかけてもドイツ語で返ってくる。英語を話す人にはつとめて英語で話す。でも、音楽を聴くと、やはりイタリア人の濃い血が流れているのを感じる。イタリア人の演奏するヴェルディは、悔しいけれど、やはり本場の香りがするんだ。この香りには、逆立ちしてもかなわないなあ。それがネイティヴというものだ。

 ソリストたちは、来日したばかりで、フルボイスで歌っていないので、残念ながら、まだここでコメント出来る状態ではないが、アムネリス役のエカテリーナ・セメンチュクの揺るぎないベルカントのフォームは、声を抜いていても超一流のものだと僕には確信できる。
 5年に一度のゼッフィレリ演出の「アイーダ」は、いつもの公演とは何か雰囲気が違う。これは新国立劇場の宝だから、なにがなんでも素晴らしい公演にしたいと、関わる人達全員が思っているからかも知れない。

 特に、新国立劇場合唱団については、僕自身が、以前も書いたように、発声のクォリティを賭けて良い仕上がりにしたいと思っている。立ち稽古の現場になっても、僕は、
「君たちのその発声は違う!そんな声の出し方じゃ駄目なんだ!」
などというシビアなダメを出している。こんな合唱指揮者は少ないだろうが、これまでとは違うヴェルディ合唱を聴かせたい僕の意気込みを、公演において舞台から感じていただければ、こんな嬉しいことはない。

僕の春分の日の過ごし方
 3月21日水曜日。「アイーダ」の練習はお休み。僕は朝から東京バロック・スコラーズの練習。プーランク作曲「悔悟節のための4つのモテット」を練習した。「バッハまでの道のりとバッハから」というアカペラ主体の演奏会を11月4日にサントリーホールの小ホール「ブルーローズ」で行うのだが、実は、僕はプーランクという作曲家のことをかなり好きなのだ。それで、バッハからの影響を、遠くプーランクにまで引き延ばしたというわけ。今は四旬節の真っ盛りなので、受難の場面を描いたこれらの歌詞が胸に染みる。

 お昼を食べて午後2時からは、当団の特別企画ワークショップ「三澤洋史とバッハを歌おう」を行った。これは、一般のお客を対象に、現在取り組んでいる「モテット第3番Jesu meine Freude」を材料にして、団員たちに混じって一般の参加者が一緒に歌ってみる体験式の企画である。このワークショップの間に、僕は様々な説明をする。発声法へのこだわりに始まり、バッハ演奏における実際の音符処理の落としどころ、演奏への注意点などに触れ、当団が何を目指し、そのためにどういう方法論を取っているかを知ってもらうのが目的である。
 驚くことに、わざわざ名古屋から、愛知祝祭管弦楽団のメンバーが3人も来てくれたり、東大アカデミカ・コールのメンバーも数人来てくれたりと、普段バッハに接することが少ない方たちが楽しそうに歌っているのを見て、僕自身とても嬉しかった。団に入るか入らないかではなく、こうして遠巻きにでも、当団の活動に興味を持ってくれる人が増えるのはいいね。
 まあ、あわよくば、入団オーディションを受けて入ってくれるともっと嬉しいけれど、そういう人のためにも、課題曲の評価するポイントを学習できるのは良いことなのだ。たとえば、結構上手な人でも、バッハの細かいパッセージを、様式感からはずれて過度なレガートで歌ってしまったら、残念ながら合格させるわけにはいかない。過去、そうした例があっただけに、こうした体験学習は大事なのである。

 また4月21日土曜日に同じ企画があります。興味をお持ちの方がいたら、是非気軽に出掛けてみて下さい。楽譜を持っていない方には、こちらで準備してお送りします。そのことも含めて、事前の申し込みが必要です。

原田茂生先生を偲ぶ会
 さて、そのワークショップが終わると、まごまごしている暇はなかった。5時から京王プラザ・ホテルで、「原田茂生先生を偲ぶ会」が催されるので、僕はタクシーで駆け付けた。そこには沢山のなつかしい人たちがいた。
 僕が10年以上非常勤講師として通い、2001年に新国立劇場合唱団指揮者になることで辞めざるを得なかった東京藝術大学オペラ科のピアニストのみなさんや、瀬山詠子さん、伊原直子さん、高橋啓三さん、多田羅柚夫さんなど、かつての教官の錚錚たるたる顔ぶれ、また、初鹿野剛君をはじめとする弟子たちなどである。

 原田茂生先生のことは以前にも書いたし、僕の著書「オペラ座のお仕事」でも書いたが、僕が、高校三年生から2年間の浪人生活を通って、国立音楽大学在学中もドイツ歌曲を習うために原田先生の自宅レッスンにずっと通っていたことは、知らない人も多いかもしれない。  
 先生のもとで僕は、「冬の旅」全曲をはじめとして、シューベルトやシューマン、ブラームスの歌曲を勉強したのである。つまり僕は、かつて歌う方の側に立って、ドイツ語歌唱の表現を徹底的に学んだのである。そのことが、のちにオペラ及びオラトリオ指揮者となって現在に至るまで、どれほど役に立っていたか、計り知れないものを感じている。

 なつかしい人達の中には、バリトンの戸山俊樹君もいた。彼とは芸大の試験場の準備室で、どちらともなく話しかけ、共に原田先生の弟子だということで瞬間的に仲良くなった以来の付き合いである。彼は、1984年から90年までドイツのハーゲン歌劇場専属歌手として活躍した後、帰国して愛知県立芸大の教授となり、現在では副学長となっている。
 戸山君は、この「偲ぶ会で」のミニ・コンサートの筆頭で、ヴォルフ作曲「アナクレオンの墓」と「ヴァイラの歌」を歌った。
 歌い終わって僕の所に来たから、
「なんだ、きちんと歌えるのに、自信がないとか言って、ちっとも僕のリング(愛知祝祭管弦楽団のニーベルングの指環)に出てくれないじゃないか。今からでも『神々の黄昏』のハーゲンに出ないか」
と言ったら、
「そういう強い役はオレのキャラクターじゃないんだ」
と言う。
「もう歌手生命引退というわけじゃないだろう」
「今度NHKのラジオに出るぞ。ブラームスのDie Mainacht(五月の夜)とか歌う。もう収録した」
「Die Mainachtというとさ、原田先生のUnd die einsame Träne rinnt.の長いワンフレーズにはあこがれたな。あれは見事だった。僕は何度トライしても一息では歌えなかった」
「オレは今回ブレスしたぜ」
「あははは」
「でも、とってもゆっくり歌った。無理しないで途中で息継ぎして、ゆったり歌うのもいいもんだぜ」
こんな細かい会話は、共に同じ時期に勉強した者同士でないと出来ない。
 それ以外にも、橋爪ゆかさんや妻屋秀和さんなどがそれぞれに歌唱を披露した。ドイツ歌曲なんか歌ったこともない行天祥晃君が「美しき水車小屋の娘」の第1曲目「さすらい」を歌い、5節まである曲の3節目で歌詞を忘れて大いにウケた。こんな風に、「偲ぶ会」といっても、亡くなった先生を悼む悲壮感はなく、和やかでやさしい会であった。

 僕のテーブルの隣は、ドイツ語の言語指導で有名な高折續(たかおり つづく)さんであった。僕は留学先のドイツから帰ってきた当初、ドイツ語には多少自信を持っていたが、実際日本人に歌唱のためのドイツ語を教えるにあたっては、高折さんから沢山のノウハウを学ばせていただいた。ドイツ語がしゃべれるからといって、即ドイツ語を上手に教えることが出来るとは限らないのである。
 高折さんは、僕にそっと耳打ちしながら、それぞれの歌手達の歌うドイツ語に対し、
「あのiの母音は開きすぎだな」
とか、
「この場合、irは巻かないと駄目だよね」
などと細かくチェックを入れていた。それを聞いていて、僕のドイツ語の批評眼はまだまだ甘いなと襟を正した。
 高折さんは、原田先生と同じにオーディオ・マニアで、原田先生のお宅でハンダ付けなどを夜中に一緒にやっていて、機械が爆発し、奥様が飛んできて怒られた、などという話をなつかしそうにしていた。

 帰り際に、原田先生の録音が収録されているCDをいただいた。家に帰って聴いてみると、1960年のNHK・FM放送のブラームスなどの歌曲が流れてきたが、そのみずみずしい歌唱には耳を洗われる思いがした。先生は1032年に生まれているから、録音時は28歳くらいか。驚くべき事だ。20代でドイツリートをこんな風に格調高く、かつ表情豊かに歌える人なんて、現代でもひとりもいないだろう。

 つくづく、僕は良い先生に恵まれていたのだと、原田先生と神様に感謝しながら、僕は京王プラザを後にし、雨模様の中、早足で新宿駅に向かった。。

ホントにホントに最後の滑り
 先々週の白馬での日々で、僕のスキー・シーズンは終わりを告げたと書いたが、26日月曜日、ひとつ用事がキャンセルになったので、未練がましくも、もういっかいだけスキーに行く。もうこれでホントにおしまい。
 だからこの原稿は、いつもよりも一日早い25日日曜日の夜に書いている。行く先はガーラ湯沢。白馬と並んで僕のもうひとつのホームグラウンドだ。明日は晴天だが、気温が上がる予報が出ている。もう、白銀に包まれた中で瞑想、というわけにもいかないな。都心では桜が満開を迎えたと言っているし、ゲレンデでも春の陽ざしと風に包まれているのだろう。

これっきり、これっきり、もう、これっきりーですねーーー。



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