今日この頃
先週の原稿を書いた11月4日月曜日の晩は、「ドン・パスクワーレ」オケ付き舞台稽古の後、なんと生まれて初めて卓球バーなるところに行った。「ドン・パスクワーレ」のマエストロであるコッラード・ノヴァーリス氏が卓球が大好きだというので、日本人歌手やスタッフなどで、マエストロを囲んで渋谷の卓球バーで卓球をしながら食事をしたのである。
僕は、最初マエストロが到着するまで何人かと組んで卓球したが、マエストロが到着してからは、何人か上手な人がいたので、自分はむしろ飲みながら見物の側に廻っていた。マエストロとも、とても楽しい会話ができたが、調子に乗ってちょっと飲み過ぎた。
マエストロと卓球
ホロッとする「ドン・パスクワーレ」
新国立劇場のドニゼッティ作曲「ドン・パスクワーレ」公演は、9日土曜日に初日の幕が開いた。これは裕福な老人のドン・パスクワーレを騙し、愛し合う若い二人が結ばれてハッピーエンドになる物語だが、物語の最後で、ドン・パスクワーレ自らが、
「全て水に流そう。君たち、しあわせになりなさい」
と告げるところは、なんとなくホロッとさせられて、この馬鹿馬鹿しいドタバタ喜劇にペーソスの味わいを添える。
特に僕くらいの歳になると、もう若者たちの時代だなあ、と思っているだけに、愛する若者たちに対してよりも、むしろドン・パスクワーレの方にシンパシーを感じる。それでいて、
「もう年甲斐もなくジタバタしないで、世の中なすがままに任せなさい」
と、悟りきったことをドン・パスクワーレに忠告したくもなる。
日本人は、ワーグナーというと、日本全国あるいは世界中に押しかけ、その劇場を満員にするが、こうしたベルカント・オペラはなかなか人気が上がらない。こうした喜劇よりもシリアスなものが好きだからね。だから初日は一杯に入ったが、劇場としては、今後の公演でまだ空席があるらしい。
割り切って欲しいのだが、これは娯楽作品である。この作品が初演された1842年には、まだテレビもラジオも映画もなかった時代。人々は劇場に、単純に娯楽を求めて通ったのだ。そうした聴衆のために、ドニゼッティは、なんと70ものオペラを作った。
その中でも「愛の妙薬」と並んで最も優れた作品だ。喜劇でもひと味違うのだよ。どうかみなさん、今からでも新国立劇場に来てくださいね。次の公演は以下の通り。
13日水曜日14時
16日土曜日14時
17日日曜日14時
詳しくは新国立劇場ホームページへ
角皆君からの返事
角皆優人君は僕の無二の親友だが、彼とは不思議な付き合いだ。これまでの人生を振り返って見ると、途中何年もお互い音沙汰なかっりすると思えば、急に密になったり、付き合いの頻度はバラバラだった。
何故かというと、10年前までは、僕は彼のスポーツの部分にほとんど興味を持っていなかったので、彼とは音楽だけでつながっていたのだ。だから、どちらかというと、彼から僕へのアプローチが多く、やや一方通行の状態であった。
それが激変したのは2009年の今頃だ。ある時、彼は久し振りに僕に連絡を取ってきた。その様子は2009年11月8日の「今日この頃」に書いてあるが、当時アルファベータという出版会社の社長で音楽雑誌「クラシックジャーナル」編集長だった中川右介(なかがわゆうすけ)氏のところに彼は僕を連れて行ってくれたのだ。
それで中川氏を交えていろいろ話をしたのだが、雑談の中で僕たちはカラヤンの話題で大いに盛り上がった。それもそのはず、中川氏は自分でも「カラヤン帝国興亡史」(冬幻舎)という本を出しているほどカラヤンに興味ある人だし、角皆君も、僕と知り合って間もない高校一年の時に、なんとカラヤンの演奏会に行って実演を見ているのだ。そして僕も、カラヤンを追い掛けてベルリンに留学したほどだからね。
それがきっかけで、中川さんは「クラシックジャーナル」で特集「やっぱりカラヤン」を組み、そのなかで雑誌の約三分の一を占める長時間座談会を掲載してくれることになったのだ。座談会の参加者は、編集長の中川右介さんが司会の役目を担い、僕と角皆君、それに「カラヤンとLPレコード」(アルファベータ)の著者である板倉重雄氏であった。
さらに座談会とは別に、その雑誌の中で角皆君はエッセイ「カラヤンとわたし」も掲載している。
その座談会の最中、角皆君は、
「歌を聴けば、その人がどういうスキーをするか分かる」
と言った。カラヤンはスキーもプロ級だったというが、彼は、カラヤンがどういうスキーをするか見なくても分かると述べたのだ。
僕は驚いて、
「何がどう違うの?」
と聞いたら、彼はこう答えた。
「ターン弧に対するプレッシャーと言ったらいいのかな。ターン弧というのは、円の一部を描きます。で、円の一部には、遠心力と重力がかかる。この遠心力と重力をどうコントロールして、次のターンに繋げていくか―外力と内力をうまく使うんですけど、それは、その人が歌う歌だったり、弾く楽器の音と、同じなんですよ。」
(クラシックジャーナル040「やっぱりカラヤン」29ページ)
その「ターン弧」という謎の言葉が呪文のようになって僕の脳裏に残り、それからいくつかの偶然が重なって、なんとその年の暮れから僕はスキーにハマったのだ。
あれからちょうど10年経つ。そして今は彼の先ほどの発言がとても良く分かるし、自分が指揮をしている時も、スキーのターン弧あるいは遠心力と重力の関係を音楽の中に感じながら、それを腕の運動に生かしているのだ。ここ10年間の、僕の指揮法の進歩にスキーは欠かせないのである。
さて、そんなわけで、今度は僕の方からスキーヤーである角皆君を求めるようになって、僕は毎冬、彼の住む白馬に通うようになり、彼からレッスンを受けるようになった。一方、夏になると彼は、愛知祝祭管弦楽団をはじめとする僕の演奏会に来てくれるようになり、僕たちは夏も冬も完全に双方向の密な交流が始まったというわけだ。
ただ、スキー・シーズンが終わってから夏までの間や、僕が新国立劇場でつかまっていて自分の演奏会ができない秋の間は、連絡は疎になる。僕が彼と行っている「マエストロ、私をスキーに連れてって」キャンプの予約受付の前は、申し込み要項の作成の際に彼からの了解を取るために何度かメールのやり取りをしたが、それ以外ほとんど連絡を取り合っていなかった。
最近になって気が付いたのだが、過去、彼と長い間連絡を取り合っていない間に、彼は何度も命に関わるような重大な怪我をしている。そんな時、彼はけっして僕に弱音を吐いたりしないのだ。まあ、考えてみると僕もそうだ。
「こんな風にうまくいってないんだよ」
とか、自分の惨めさを訴え合うような甘え合う関係はお互い嫌なんだな。そういうところも僕たちはとっても似ているのだ。
そうはいっても、彼は最近も肩の病気をしたり、気胸なども患っているだろう。やっぱり、その真っ最中には彼は僕に連絡してこないのだ。ちょっと良くなると連絡を再開するのだけれどね。でも決まって、
「ちょっと調子が悪かったけれど、もうすっかり良くなりました」
という調子なのだ。
最近は、むしろ妻や娘たちが角皆君のFacebookを見ていて、いち早く、
「あなた、角皆さん病気みたいよ」
とか言ってくる。
それでね、実を言うと、ここのところもメールのやり取りをちょっとしていなかったのだ。確かに、切羽詰まった用事はお互い特にないのだけどね。でも、もしかしたらその間にまた病気や怪我でもしていないだろうか、バイクで転んだりしていないだろうか、ちょっと心配になっていた。
先週、「半ば皆さん向け、半ば角皆君への手紙」という記事を書いたのも、ちょっとはそんな心配もあったから。原稿更新と同時に、角皆君に「こういう記事を書いたよ」というメールを送っておいた。ところが、すぐに返事が来ない。それで、あ、やっぱり何かあるかな?と心配したんだよ。
そうしたら、彼は逆に自分のブログで「親友への手紙」(トナカイの独り言11月5日)を書いてくれた。それに少し時間がかかっていたというわけか。なあんだあ。心配かけないでよ!それにしても、身に余るほど暖かい手紙だったよ。僕も少しホロッときた。
そのブログの中で彼は、僕の忘れていることも書いていた。以下は、彼のブログからの引用。
初めて三澤君の家に泊まった時のこと・・・・・・。へえ、あの頃まだトランペット吹いていたんだ。中学校の頃、吹奏楽部に入っていた僕はトランペットを吹いていた。しかし2年生のある日、僕は近所で結成したばかりのジャズバンドに誘われ、アドリブを独学で覚え、すっかりジャズにハマっていたので、もうクラシックには戻れない吹き方になっていた。
夜も遅くなって、彼が 「河原に行こう」 と言うのです。
家の近くに、二人にとって意味のある烏(からす)川が流れていました。
河原に行く理由は、「彼のトランペットを聴きたい」というわたしの願いを叶えてくれるためでした。
思い切りトランペットの吹ける河原に行って吹くというのです。
星も月も出ていない曇天。
対岸の灯りが川面に反射して、その光が紅潮した彼の横顔を浮き上がらせました。
烏川の広大な空間に、どこかで聴いたことはあるけれど、曲名を知らない音楽が響きました。
その時の彼の紅潮した横顔を、わたしは決して忘れないでしょう。