ホロッとする「ドン・パスクワーレ」

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

今日この頃
 先週の原稿を書いた11月4日月曜日の晩は、「ドン・パスクワーレ」オケ付き舞台稽古の後、なんと生まれて初めて卓球バーなるところに行った。「ドン・パスクワーレ」のマエストロであるコッラード・ノヴァーリス氏が卓球が大好きだというので、日本人歌手やスタッフなどで、マエストロを囲んで渋谷の卓球バーで卓球をしながら食事をしたのである。
 僕は、最初マエストロが到着するまで何人かと組んで卓球したが、マエストロが到着してからは、何人か上手な人がいたので、自分はむしろ飲みながら見物の側に廻っていた。マエストロとも、とても楽しい会話ができたが、調子に乗ってちょっと飲み過ぎた。


マエストロと卓球


 そうでなくても、新しい本の原稿執筆で目がショボショボだったので、火曜日の朝は、ちょっと体調を崩してしまった。そこで、僕としては珍しくその晩から3日間禁酒をした。禁酒していると、体調は勿論のこと良い。朝起きたときの体の軽さが違う。それで、このままお酒を断ったら、よりよい生活ができるんだろうなあ、とは思うんだが、その一方で、「お酒がなくて何の人生よ」という声も体の内部から聞こえてくる。そうしてまた気が付いたら晩酌の日々に戻っている。

 プールにはよく行く。「ドン・パスクワーレ」のゲネプロの次の日の8日金曜日や、昨日の日曜日、先週と同じように立川教会8時のミサの後、すぐそばの柴崎体育館に行って9時から泳いだ。そして、今日も、この原稿を書いた後、行くつもりである。
 そういえば、角皆君からひとつだけ忠告があったのは、キックの記述についてだ。「自転車のように回して」と書いたが、「自転車を逆回しするように」と書いた方が正確だよ、というものであった。その通りだ。
 家で、前にお祭りの時に杏樹が金魚釣りした金魚が、みんなすぐ死んでしまったが一匹だけ生き残っている。その金魚をよく僕は見つめている。特にその尾ヒレの動きは尊敬に値する。尻尾の先をピッと動かすだけで、ビューンと水の中を猛スピードで飛ぶのだ。スピードが出ているときには尾ヒレは真っ直ぐ。すると、その流線型の体が理想的なのだな。
 考えてみると、人間はある意味、その魚類の状態から退化して哺乳類として生きているのだが、いざ泳ぐとなると、その魚類から学ぶことが多くて笑ってしまう。とすると、水泳の達人はより魚類に近いということか・・・。いずれにしても人間に当てはめると、キックは、足首が柔軟で足の甲を意識することが大事だ。

 と、ここまでは11日月曜日の午前中に書いていた。そのまま送ってしまおうと思ったのだけれど、今日は「ドン・パスクワーレ」の2回目の公演が19時からで、それまで空いているので、お昼食べて柴崎体育館に泳ぎに行ってから、もう一度見直ししてコンシェルジュに送ろうと決めて、プールに行った。そうしたら・・・・。

「入水の時、親指から入れなさい」
クロールで300メートルくらい泳いだ時、25メートルを泳ぎ切ったと思ったら、突然横から声がした。振り向くとおじさんが(僕も立派なおじさんだけど)にこりともしないで僕の方を見つめている。
「あんたのは小指から入っている。親指からこう入れるんだよ」
ん・・・・と思ったけれど、ここで争っても仕方がないので、
「あ、分かりました」
と言った。それで、その後は、なるべくそのおじさんの側に行かないようにして泳いだ。

 一度、そのおじさんの泳ぎを見たら、入水した後の手は両手とも体の真ん中、すなわち頭の中心の延長線上で伸ばしている。あ、やっぱりな、と思った。教えてくれようとするのは親切でいいのだが、それは昔の一軸という泳ぎ方なのだ。
 僕が角皆君から教わっているのは、二軸、あるいはX軸と呼ばれるもので、入水する方向は体のセンターに向かってではなく、それぞれの腕の前進方向。だから、せいぜい中指から入水するか、場合によっては小指からでいいのだ。
 特に今は、リカバリーの手が入水する前に、頭の上を通り越したら反対側の手を掻き始めているので、入水時にはもう体が完全にフラットに戻っているか、またはほんの少し反対側に傾いている。だから自然に入水するとむしろ小指側から入るのである。中指より小指の方が泡をつかまないという利点もある。

 それと、そのおじさんはローテーションをあまりしていない、いわゆるフラット・スイミングなのだ。これだって最良ともいえない。
今はいろんなやり方があるんだから、もうほっといてよ。
「小さな親切、大きなお世話!」  


ホロッとする「ドン・パスクワーレ」
 新国立劇場のドニゼッティ作曲「ドン・パスクワーレ」公演は、9日土曜日に初日の幕が開いた。これは裕福な老人のドン・パスクワーレを騙し、愛し合う若い二人が結ばれてハッピーエンドになる物語だが、物語の最後で、ドン・パスクワーレ自らが、
「全て水に流そう。君たち、しあわせになりなさい」
と告げるところは、なんとなくホロッとさせられて、この馬鹿馬鹿しいドタバタ喜劇にペーソスの味わいを添える。
 特に僕くらいの歳になると、もう若者たちの時代だなあ、と思っているだけに、愛する若者たちに対してよりも、むしろドン・パスクワーレの方にシンパシーを感じる。それでいて、
「もう年甲斐もなくジタバタしないで、世の中なすがままに任せなさい」
と、悟りきったことをドン・パスクワーレに忠告したくもなる。

 日本人は、ワーグナーというと、日本全国あるいは世界中に押しかけ、その劇場を満員にするが、こうしたベルカント・オペラはなかなか人気が上がらない。こうした喜劇よりもシリアスなものが好きだからね。だから初日は一杯に入ったが、劇場としては、今後の公演でまだ空席があるらしい。

 割り切って欲しいのだが、これは娯楽作品である。この作品が初演された1842年には、まだテレビもラジオも映画もなかった時代。人々は劇場に、単純に娯楽を求めて通ったのだ。そうした聴衆のために、ドニゼッティは、なんと70ものオペラを作った。

 その中でも「愛の妙薬」と並んで最も優れた作品だ。喜劇でもひと味違うのだよ。どうかみなさん、今からでも新国立劇場に来てくださいね。次の公演は以下の通り。
13日水曜日14時
16日土曜日14時
17日日曜日14時
詳しくは新国立劇場ホームページへ

角皆君からの返事
 角皆優人君は僕の無二の親友だが、彼とは不思議な付き合いだ。これまでの人生を振り返って見ると、途中何年もお互い音沙汰なかっりすると思えば、急に密になったり、付き合いの頻度はバラバラだった。
 何故かというと、10年前までは、僕は彼のスポーツの部分にほとんど興味を持っていなかったので、彼とは音楽だけでつながっていたのだ。だから、どちらかというと、彼から僕へのアプローチが多く、やや一方通行の状態であった。

 それが激変したのは2009年の今頃だ。ある時、彼は久し振りに僕に連絡を取ってきた。その様子は2009年11月8日の「今日この頃」に書いてあるが、当時アルファベータという出版会社の社長で音楽雑誌「クラシックジャーナル」編集長だった中川右介(なかがわゆうすけ)氏のところに彼は僕を連れて行ってくれたのだ。
 それで中川氏を交えていろいろ話をしたのだが、雑談の中で僕たちはカラヤンの話題で大いに盛り上がった。それもそのはず、中川氏は自分でも「カラヤン帝国興亡史」(冬幻舎)という本を出しているほどカラヤンに興味ある人だし、角皆君も、僕と知り合って間もない高校一年の時に、なんとカラヤンの演奏会に行って実演を見ているのだ。そして僕も、カラヤンを追い掛けてベルリンに留学したほどだからね。

 それがきっかけで、中川さんは「クラシックジャーナル」で特集「やっぱりカラヤン」を組み、そのなかで雑誌の約三分の一を占める長時間座談会を掲載してくれることになったのだ。座談会の参加者は、編集長の中川右介さんが司会の役目を担い、僕と角皆君、それに「カラヤンとLPレコード」(アルファベータ)の著者である板倉重雄氏であった。
 さらに座談会とは別に、その雑誌の中で角皆君はエッセイ「カラヤンとわたし」も掲載している。

 その座談会の最中、角皆君は、
「歌を聴けば、その人がどういうスキーをするか分かる」
と言った。カラヤンはスキーもプロ級だったというが、彼は、カラヤンがどういうスキーをするか見なくても分かると述べたのだ。
 僕は驚いて、
「何がどう違うの?」
と聞いたら、彼はこう答えた。
「ターン弧に対するプレッシャーと言ったらいいのかな。ターン弧というのは、円の一部を描きます。で、円の一部には、遠心力と重力がかかる。この遠心力と重力をどうコントロールして、次のターンに繋げていくか―外力と内力をうまく使うんですけど、それは、その人が歌う歌だったり、弾く楽器の音と、同じなんですよ。」
クラシックジャーナル040「やっぱりカラヤン」29ページ)

 その「ターン弧」という謎の言葉が呪文のようになって僕の脳裏に残り、それからいくつかの偶然が重なって、なんとその年の暮れから僕はスキーにハマったのだ。
 あれからちょうど10年経つ。そして今は彼の先ほどの発言がとても良く分かるし、自分が指揮をしている時も、スキーのターン弧あるいは遠心力と重力の関係を音楽の中に感じながら、それを腕の運動に生かしているのだ。ここ10年間の、僕の指揮法の進歩にスキーは欠かせないのである。

 さて、そんなわけで、今度は僕の方からスキーヤーである角皆君を求めるようになって、僕は毎冬、彼の住む白馬に通うようになり、彼からレッスンを受けるようになった。一方、夏になると彼は、愛知祝祭管弦楽団をはじめとする僕の演奏会に来てくれるようになり、僕たちは夏も冬も完全に双方向の密な交流が始まったというわけだ。
 ただ、スキー・シーズンが終わってから夏までの間や、僕が新国立劇場でつかまっていて自分の演奏会ができない秋の間は、連絡は疎になる。僕が彼と行っている「マエストロ、私をスキーに連れてって」キャンプの予約受付の前は、申し込み要項の作成の際に彼からの了解を取るために何度かメールのやり取りをしたが、それ以外ほとんど連絡を取り合っていなかった。

 最近になって気が付いたのだが、過去、彼と長い間連絡を取り合っていない間に、彼は何度も命に関わるような重大な怪我をしている。そんな時、彼はけっして僕に弱音を吐いたりしないのだ。まあ、考えてみると僕もそうだ。
「こんな風にうまくいってないんだよ」
とか、自分の惨めさを訴え合うような甘え合う関係はお互い嫌なんだな。そういうところも僕たちはとっても似ているのだ。
 そうはいっても、彼は最近も肩の病気をしたり、気胸なども患っているだろう。やっぱり、その真っ最中には彼は僕に連絡してこないのだ。ちょっと良くなると連絡を再開するのだけれどね。でも決まって、
「ちょっと調子が悪かったけれど、もうすっかり良くなりました」
という調子なのだ。
最近は、むしろ妻や娘たちが角皆君のFacebookを見ていて、いち早く、
「あなた、角皆さん病気みたいよ」
とか言ってくる。

 それでね、実を言うと、ここのところもメールのやり取りをちょっとしていなかったのだ。確かに、切羽詰まった用事はお互い特にないのだけどね。でも、もしかしたらその間にまた病気や怪我でもしていないだろうか、バイクで転んだりしていないだろうか、ちょっと心配になっていた。
 先週、「半ば皆さん向け、半ば角皆君への手紙」という記事を書いたのも、ちょっとはそんな心配もあったから。原稿更新と同時に、角皆君に「こういう記事を書いたよ」というメールを送っておいた。ところが、すぐに返事が来ない。それで、あ、やっぱり何かあるかな?と心配したんだよ。
 そうしたら、彼は逆に自分のブログで「親友への手紙」(トナカイの独り言11月5日)を書いてくれた。それに少し時間がかかっていたというわけか。なあんだあ。心配かけないでよ!それにしても、身に余るほど暖かい手紙だったよ。僕も少しホロッときた。

 そのブログの中で彼は、僕の忘れていることも書いていた。以下は、彼のブログからの引用。

  初めて三澤君の家に泊まった時のこと・・・・・・。
夜も遅くなって、彼が 「河原に行こう」 と言うのです。
家の近くに、二人にとって意味のある烏(からす)川が流れていました。
  河原に行く理由は、「彼のトランペットを聴きたい」というわたしの願いを叶えてくれるためでした。
思い切りトランペットの吹ける河原に行って吹くというのです。

星も月も出ていない曇天。

対岸の灯りが川面に反射して、その光が紅潮した彼の横顔を浮き上がらせました。
烏川の広大な空間に、どこかで聴いたことはあるけれど、曲名を知らない音楽が響きました。
その時の彼の紅潮した横顔を、わたしは決して忘れないでしょう。
 へえ、あの頃まだトランペット吹いていたんだ。中学校の頃、吹奏楽部に入っていた僕はトランペットを吹いていた。しかし2年生のある日、僕は近所で結成したばかりのジャズバンドに誘われ、アドリブを独学で覚え、すっかりジャズにハマっていたので、もうクラシックには戻れない吹き方になっていた。
 同時に、自分の中では、音楽家になりたいという気持ちがどんどん膨らんでいったのだが、トランペット奏者にはモチベーションが湧かなかったのだ。僕の一年上の先輩のTさんは新町中学校から高崎高校吹奏楽部に入って、当時プロを目指していたんだろうな、僕に向かって、
「三澤、オケの中のトランペット奏者というのはな、23小節の休みを指で数えて、それからドーーーと一音だけ出す。しかし、これが揺れたり息が続かなくなったら駄目なんだ」
と、得意そうに僕に言っていたけれど、僕は、そんなの嫌だと思った。トランペットを吹くのだったら、ジャズみたいに自由に指をいっぱい動かしてハイトーンもギリギリ高い所まで出して、みんなにオー!と言わせたいじゃないか。そうすれば女の子にだってモテモテじゃないか、と思っていたのだ。
 でも、角皆君を僕の家に連れてきた頃には、もうトランペットはきっぱりとあきらめたと思っていたのに、彼に吹いて聴かせたんだね。一体何を吹いたのだろう?夜の河原だから、ニニ・ロッソの「夕暮れのトランペット」か「夜空のトランペット」かも知れないな。いずれにしても、彼はそんな僕をどんな気持ちで見ていたかなんて考えたこともなかった。

 僕にとっては逆に、角皆君の家は何もかも僕の家と違っていて、なにしろ僕が憧れていた“文化の香り”がしていたんだ。僕の家が飼っていた犬は雑種ばっかりだけれど、彼の家で飼っていたのは、日本でも有数な血統書付きのコリーだしな。お母さんは美人だし、レコードはいっぱいあるし、角皆君は彼のおばあさんのことを「バーバ」って呼んでいたし、もうため息が出るほどハイソサエティだった。

 県下一の進学校だから、まわりのクラスメートがみんな、一年生の頃から大学進学をターゲットに一心不乱に勉強していた中で、ヘッセやロマン・ロラン、ドストエフスキーを読んで感想を語り合っていたり、ベートーヴェンなどについて議論していたなんて、今から思うと本当に素敵な関係だ。こんな親友をこの多感な時期に僕に与えてくれた神様には、本当に感謝だ。

 角皆君は、彼と僕との関係を宮沢賢治と保阪嘉内になぞらえているけれど、僕たちにはひとつだけ大きな相違がある。それは、僕たちは彼らと違って、生涯の終わりまで決して決別することはないということ。
 僕は別に角皆君に今さらクリスチャンになれと言うつもりもないし、今さらひとりの女を奪い合うという可能性もないし(笑)、僕は彼の生き方をどうのこうの言うつもりもないし、彼もそうだろう。
まあ、お互い長生きしよう!
 差し当たっては、「マエストロ、私をスキーに連れてって」キャンプの内容をもっともっと充実させることに専念しよう。

角皆君、ありがとう今日まで!
そしてこれからもずっと僕の親友でいてください!



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