動き出した高崎
9月5日土曜日。当日の朝になっても半信半疑であった。いつ電話が掛かってきて、
「やっぱり中止になりました」
と言われるかとビクビクしていたが、午後になっても何の連絡もないので、では、本当にやるんだな、と思って家を後にした。
週末の高崎線普通電車は異常にすいていた。通常なら、鈍行に乗ると、指定席に乗らないと熊谷くらいまで立っていなければならないが、コロナ禍のお陰で大宮からあっけなく座れた。高崎は、新幹線に乗れば大宮から30分以内。でも僕は、久し振りの電車旅を満喫したかったので、わざと在来線で行く。
カバンからミヒャエル・エンデ著「モモ」のドイツ語版(原書)を取り出す。硬い表紙を開いてゆっくりと読み始める。昔何度も読んだので結構ボロい本。時折窓の外の景色を眺めながらまた本に目を戻す。
ちょっと意味が曖昧な単語があっても読み飛ばす。すると前後の関係で、読んでいる内に前のフレーズの意味も分かってくる。その一方で、気になる構文があると、わざわざ電子辞書を引く・・・・家に居ると果てしなく時間はあるのに、案外こういう時って持てないのだ。高崎に着くまでここに縛り付けられて、絶対に他にやることってない。だからこそ、このひとときが至福の時となるのだ。
Was die kleine Momo konnte wie kein andere, das war:Zuhören.あはははは、別に翻訳者じゃないから、どんな風にでも訳せるのだ。最後にeinmaligという単語があるだろう。einmalすなわち1回という言葉から来ている形容詞だけれど、この言葉をドイツ人が使う時は、たいてい最高の賛辞を捧げる時だ。
ちいさなモモができたことは、ほかでもなく「聞く」ことだったのだよ。
Das ist doch nicht besonderea,wird nun vielleicht mancher Leser sagen,zuhören kann doch jeder.
と言えば、たぶん多くの読者はこう言うだろう。
「聞く事なんて誰にでもできるじゃないか、別になんでもないじゃないか」
Aber das ist ein Irrtum.
ところがそれは違うんだなあ。
Wirklich zuhören können nur ganz wenige Menschen.
本当に聞くことができる人というのは、ほとんどいないんだよ。
Und so wie Momo sich aufs Zuhören verstand,war es ganz und gar einmalig.
特にモモのような聞く能力というのはねえ、まったくもって稀有のもの。
Zoomレッスン、遠山さんの場合・僕の場合 遠山さんのZoomレッスン
メーラーの日付を辿ってみたら、親友の角皆優人君が、自分のフリースタイル・アカデミーの会社でZoomレッスンを行うんだと僕に言ってきたのが7月14日。その時、彼の方から、僕にも講師になってくれないかと聞いてきた。
Zoomレッスンといっても、僕のように1対1の実技レッスンではなく、実際には有料の講演会だ。でも、これってスキーのオンライン・レッスンでしょう。こんな門外漢の僕が何を話すんだ、などと思っていたら、前島良雄さんが「今こそマーラーを聴こう」などというテーマで講義をするというので、ああ、要するに何でも良いのね、と軽い気持ちで引き受けた。ちなみに、僕が担当する「音楽とスキーの深い関係」は、11月1日日曜日午前9時から。
そのZoomレッスンの記念すべき初日は、昨日9月6日日曜日の朝9時から始まった。講師は武術家の遠山知秀さん。彼とは何度かお会いしている。中国内功武術(太極拳・形意拳・八卦掌)の専門家であるけれど、トランポリンなど何でもやる。表面は静かで穏やかだが、内に秘めるものが凄い。
今日の演題は「上達のしくみ概論」。いや、まいった。これが素晴らしかったので、僕は今ちょっとあせっている。自分は、とてもあんな風に理路整然とは語れないなあ。
遠山さんは、中国の武道の歴史の中から、心、意、気、力という、人間の内面の四つの階層を取り上げ、これをひとつひとつ丁寧に説明していくことから講義を始めた。また上達のしくみ展成論として、人間は、すでに出来ていることを土台にして、今まで出来なかった新しいことに挑戦し、これを出来るようにする、という話は実に興味深かった。すべてを今ここで説明することは出来ないが、要するに、進歩するということは、出来ないことが出来るようになるということであり、そこには「だんだん」ということはなく、出来ないものが、ある時出来るようになる、というどちらかしかない。そのプロセスは・・・・・etc。
とにかく、いろんな話をしたので、頭がついていくのが大変であったが、今振り返って咀嚼していると、これは音楽を教えたりする時にも、当てはまることが沢山あって、行為者としての自分だけでなく、教師としても教えられることが沢山あった。
僕のZoomレッスン
そういえば、僕が自分のZoomレッスンを思い立ったのも、角皆君の影響を無視できない。僕は彼からヒントをもらって、
「そうかあ、彼は彼で、このコロナ禍にただ手をこまねいているわけでなく、頑張っているなあ。自分も何か出来るかなあ?」
と思って、結果的に自分のZoom指揮法レッスンを立ち上げたというわけだ。
その僕のZoomレッスンも、いよいよ今晩(9月7日月曜日午後9時)から始まる。9月1日から募集はかけていたのだけれど、みんな割とギリギリに申し込んできた一方で、僕はむしろ自分のYoutubeを観て練習してから臨んで欲しかったので、例の米国からの希望者がトップ・バッターとなった。そして明日は、午前中と夜にひとりずつ受講者を持つ。
興味深いのは、受講者には東京都の人もいるが、和歌山県とか愛知県とか地方の人が多い。海外でも、先ほど述べたアメリカの他に、ウィーンからも申し込み者がいる。テレワークというのは、わざわざ電車に乗って行ったりする必要なく、家に居ながらにして用が足せるので便利だと思う。
ただ、リアルなレッスンでは当たり前のようにして出来ることが、タイムラグなどで難しかったりするので、いろいろ困ることもあるだろうな。まあ、やってみてから、頭を使ってひとつひとつ解決していこうと思う。
コロナ禍でもたらされた新しいライフスタイルに、もはや老人の域に入った僕や角皆君もチャレンジしていく。人生いくつになっても、新しいことをやるのはワクワクするなあ。
「愛で殺したい」の原曲はイカスぜ!
7月の真生会館「音楽と祈り」講座の和声の説明の時、僕はドミナント進行の典型的な例として「別れの朝」の原曲であるWas Ich Dir Sagen
Will「僕が君に言いたいこと」を取り上げた。そのことは7月20日の「今日この頃」でも述べている。
その講座の中で、いわゆるナインス・コード(ラドミの和音にシの音を付加する)の説明をする際、サーカスというグループの歌っていた「愛で殺したい」という曲をピアノで弾きながら説明したが、今日はこの原曲についてちょっと述べてみたい。
1960年代から80年くらいまで、我が国では沢山の欧米の歌謡曲が、日本語に訳されて日本人歌手によって紹介されていた。たとえば、1964年にユーロビジョン・ソング・コンテストにおいて、イタリア代表として出場し優勝した、弱冠16歳のジリオラ・チンクエッティが歌った「夢見る想い」Non ho l'età(まだそんな年じゃないの)や、1965年のサンレモ音楽祭でピノ・ドナッジョによって歌われ、それ以後沢山の歌手によってカバーされた「この胸のときめきを」Io che non vivo senza te(君なしでは生きられない僕)など、あの頃は、アメリカよりもむしろヨーロッパでヒットした歌のカバーが多かった。
それらの外来曲の訳詩は、最初の内は、原詩を素直になぞるものが多かったが、ある時から変化が起きた。その原因は、なかにし礼という作詞家の出現による。なかにし礼を最初に有名にしたのは、1967年に菅原洋一が歌って大ヒットした「知りたくないの」。
How many arms have held you どれだけの腕があなたを抱いたのか And hated to let you go あなたに去って欲しくなくて引き留めたのか How many, how many, I wonder どれだけ・・・どれだけなのかって思ってしまう But I really don't want know. でも、私は知りたくないんだ
Chante comme si tu devais mourir demain | 歌え、明日死ななければならないかのように | ||
作詞: | Pierre Delanoê | ||
作曲、歌: | Michel fugain | ||
Chante la vie chante | 歌え、人生を謳歌せよ | ||
Comme si tu devais mourir demain | 明日死ななければならないかのように | ||
Comme si plus rien n'avait d'importance | 歌え もう何も気にかけるものなどないかのように |
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Chante, oui chante | 歌え、そうだ歌うんだ | ||
Aime la vie aime | 愛せよ、人生を愛せよ | ||
Comm'un voyou comm'un fou comm'un chien | ちんぴらのように、頭おかしい者のように、 犬ころのように |
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Comme si c'était ta dernière chance | それが最後のチャンスかのように | ||
Chante, oui chante | 歌え、そうだ歌うんだ | ||
Tu peux partir quand tu veux | いつ出発したっていいんだ | ||
Et tu peux dormir où tu veux | 何処で寝たっていいんだ | ||
Rêver d'une fille | 女の子にあこがれたっていい | ||
Prendre la Bastille | 革命したっていい | ||
Ou claquer ton fric au jeu | 賭け事で金を遣い果たしたっていい | ||
Mais n'oublie pas | でも忘れるなよ | ||
Chante la vie chante | 歌え、人生を謳歌せよ | ||
Comme si tu devais mourir demain | 明日死ななければならないかのように | ||
Comme si plus rien n'avait d'importance | 歌え もう何も気にかけるものなどないかのように |
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Chante, oui chante | 歌え、そうだ歌え | ||
Fête fais la fête | お祭り騒ぎをしたっていいのさ | ||
Pour un amour un ami ou un rien | 恋のため、友のため あるいは何でもないもののために |
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Pour oublier qu'il pleut sur tes vacances | せっかくのバカンスが 雨でだいなしになったことを忘れるために |
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Chante oui chante | 歌え、そうだ歌うんだ | ||
Et tu verras que c'est bon | そしてきみは知るんだ | ||
De laisser tomber sa raison | 分別を捨てることはいいことなんだと | ||
Sors par les fenêtres | 窓から出て行くのさ | ||
Marche sur la tête | 逆立ちして歩いてみなよ | ||
Pour changer les traditions | 決まり切った常識を変えるため | ||
Mais n'oublie pas. | でも忘れるなよ |
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Chante la vie chante | 歌え、人生を謳歌せよ | ||
Comme si tu devais mourir demain | 明日死ななければならないかのように | ||
Comme si plus rien n'avait d'importance | 歌え もう何も気にかけるものなどないかのように |
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Chante, oui chante | 歌え、そうだ歌うんだ | ||