「マイスタージンガー」千穐楽の幕裏

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

「仏典童話」の奇蹟
 シュタイナー教育では、子供はなるべく早く、遅くとも20時頃までに寝て、たっぷりと睡眠時間を取るように教えられている。その時間に僕が家にいる時には必ず、僕は寝室で小学2年生の孫の杏樹に、絵本を読み聞かせることにしている。
 その話を担任の先生にしたら、先生は、
「おじいちゃんがそうやって関わってくださるのは、とても良いことです。第二7年期に入ったこの時期は、これまでのように、親の言うことや行うことを模倣するだけではなく、尊敬に値する人を求めたり、権威あるものにあこがれたりする感情が生まれるので、そうした内容の本も混ぜたらいいと思います。そうだ、良い本があるので、お貸ししましょう!」
と言って、ある本を貸してくれた。

写真 子供向け絵本「仏典童話」の表紙
仏典童話


 それは「仏典童話」(東本願寺出版部)という本で、それぞれ見開き2ページずつの短いお話しが10話入っている。おシャカ様が直接出てきたり、間接的におシャカ様にお布施をする、というような内容だったりする。
「もし杏樹がつまらないと言ったらどうしよう。でも、せっかく先生が貸してくれたのだから、試しに最初のおはなしだけでも読んでみよう」
という気持ちで、他の絵本を読んだ後、その本を開いた。すると、杏樹はおとなしく聞いていて、話が終わると、いろいろ質問してきた。

 第1話は、ナンダーと呼ばれる貧しい女性が、自分のわずかばかりの食べ物を差し出して、油屋に、
「これで買えるだけの油をください」
という。油屋がその訳を聞くと、間もなく旅に出るおシャカ様に捧げるためだという。その言葉を聞いた油屋は、油をわざと足してあげる。読み終わってから、
「どうして油を余計にあげたの?」
と訊く杏樹。
「ナンダーが自分の食べるものを削ってまで、おシャカ様に油を捧げようと思ったその気持ちにね、油屋は感動したんだね」
 その晩、突風が吹いてジェーダの林の灯明は一瞬にしてみんな消えたけれど、ナンダーの捧げた灯明だけは灯り続けていたという。
「なんでナンダーのだけは消えなかったの?」
「そうだねえ。きっと神様が、ナンダーの心を偉いと思って、消えないようにしてくれたのかな。あのね、人から何かをもらった時って嬉しいじゃない。でもね、人に何かをあげる時も嬉しいじゃない」
「どうして?」
「もらったら自分が嬉しいのを知っていて、あげたら相手も自分と同じようにきっと喜んでくれる、と思うのって、嬉しいだけじゃなくて、しあわせなんだ。もっと言うとね、相手が別に気づかなくてもいい、自分があげるだけでしあわせ、って気持ちになると、神様はもっと喜んでくれる」
「・・・・・」
こんなやり取りしても分かるかなあ、と思っていたら、隣で寝息を立ててもう寝ている。たまたまかと思っていたら、次に読んだ時もまた、いろいろ質問してきて、それから、とっても気持ちが安らかになって、たちまち寝入ってしまう。いつもだったら、読み聞かせをした後もなかなか寝ないのに、この本を読んだ時だけ起きるこの現象。昨晩で10話すべてが終わったが、10話すべてにおいてそうだった。
僕は、
「これは魔法の本だ!」
と思うようになった。
 担任の先生は、
「読み終わって、もっと読みたいならば第2巻もありますから、お貸ししますよ」
と言ってくれたが、第1巻もとっておきたいので、Amazonで探したらあった。それでprimeで申し込んだら明日届くことになっている。

「仏典童話」の奇蹟。「捧げる心」という魔術。それが杏樹に届いている。  


「マイスタージンガー」千穐楽の幕裏
 昨年の6月頃、初めての緊急事態宣言が解除されてからも、全てのオペラ公演や演奏会が中止になっていて、スケジュール表は真っ白であった。どこにも仕事に行くところがなくて毎日家に居ながら、僕はよく思っていた。
「本当だったら、今頃は、海外からトーマス・ヨハネス・マイヤーやアドリアン・エレートを初めとした海外勢がやってきて、ドイツ語で彼らと会話し、みんなで一緒に大作を創り上げていく怒濤のような日々が繰り広げられていただろうに・・・」
 まるで見棄てられたような日々。音楽なんて無用の長物と突きつけられたような虚無感。果たしていつかまた、あの情熱に満ちた毎日って、僕に戻ってくるのだろうか?と疑心暗鬼になっていた。

 それが戻って来た。そしてとうとう成し遂げた。新国立劇場「ニュルンベルクのマイスタージンガー」千穐楽のカーテンコールでは、ブラボーの叫びは禁止されているものの、拍手の波で、観客が本当に喜んでくれているのが肌に伝わってきた。オーケストラ・ピットでは東京都交響楽団の楽員達が一人ずつB・R・A・V・Iという5枚の札を持って、舞台上の出演者達に掲げてくれている。温かいオケだ。でもお客さんに見えないのがちょっと残念。

 カーテンコールの最後の幕が閉まると、その後ろ側では、皆、感無量という感じで去り難かった。マエストロの大野和士さんが進み出て、ソリストと合唱団員達みんなに挨拶し、
「2年越しでやっと出来ました。皆さんの努力と、そして節制のお陰です。ありがとうございました!」
と丁寧に感謝の気持ちを述べた。
 すぐそばにいたマイヤーの顔を見ると、目に涙を溜めていた。思わず僕もウルウルしてしまった。他のみんなも同じように感動している。

 コロナ禍の前には当然のように迎えていた千穐楽が、こんなに有り難いもので、こんなに感動に満ちたものに感じたならば、それを再確認させてくれたのは、他ならぬコロナのお陰だ。
「コロナよ、ありがとう!」
と思わず言ってしまいそうな自分を笑った。

マルチリンガルからの忠告
 親友の角皆君が行っているZoomレッスンに、一度講師としてお話しした特権で、スケジュールが空いている時には好んでZoomレッスン視聴者として参加している。いろんな方が講師として登場していて楽しいし、得ることも多い。

 最近、彼自身が講師となった「英語でコミュニケーション」講座に参加してみて、とてもためになったが、11月の講座は、「マイスタージンガー」の練習のために出られなかったし、1月に計画しているという講座にも出られそうもない。
 そうしたら角皆君は言った。
「三澤君は、オペラの現場で働いているために、いくつもの言語でしゃべるマルチリンガルだろう。今度参加したときに、少し時間を使って、マルチリンガルとして気づくことや、何か人と違うこととかしゃべってくれないかなあ?スケジュールが合わなかったら、ビデオ作ってくれてもいいよ」
「なるほど、実はいろいろ言いたい事があるんだ」
ということで、ビデオを作ってみようと思い始めた。すると、いろいろアイデアが出てきて、とても角皆君の講座での数分だけには収まりそうにない。そこで、角皆君の講座用には5分程度のものを作り、僕は僕で、もう少しその話題を広げたビデオを作成して、年末に編集してYoutubeで流そうかと考えている。で、今日は、今準備しかけている内容の一部について書いてみたい。

 かつて、2012年11月26日の「今日この頃」で、僕は「試験に出る英単語(俗にシケタン)」についての記事を書いた。

写真 「試験にでる英単語」の表紙
シケタン表紙


もう世代によってはシケタンと聞いても何のことか分からない人もいるかも知れないが、僕が高校生活を送っていた頃の高崎高校の生徒で、大学入試を控えてシケタンを持っていない者はいなかった。そのシケタンについて当時の「今日この頃」で扱った内容が、バイリンガルの話に役立つと思って、記事をプリントアウトして読みつつ、同時に再びシケタンを引っ張り出して見た。そして、あらためて驚いた。

写真 「試験にでる英単語」名詞の1-2頁目
シケタン名詞001
写真 「試験にでる英単語」名詞の3-4頁目
シケタン名詞002
写真 「試験にでる英単語」形容詞の1頁目
形容詞


 まず衝撃的なことがある。ご覧いただいた名詞の最初の4ページにも、形容詞のページにも、実は英語は一語もないのである!勿論、それらは英語を使っている人たちが英語として認識しているから「英語だ!」と言ってしまえばそれまでかも知れないが、少なくとも、オリジナル言語が英語ないしは古代ゲルマン語であるものは一語もないのだ。
 もっと衝撃的なのは、これらのオリジナルは、全てラテン語ないしはギリシャ語であるということ。僕が単語のそばに鉛筆で書き込んだのは、羅和辞典に載っているオリジナルのラテン語で、すなわち、ほとんど全部の単語がラテン語の辞書に載っているということだ。
 僕は宗教曲をやっているから触れているけれど、ラテン語という言語は、すでに遠い昔に死語となってしまった言語で、それらはイタリア語、スペイン語、フランス語などのラテン系言語に俗語として変化し、今日に至っている。だから、ラテン語は(より古いギリシャ語は別として)他の言語から全く影響を受けていない、ある意味純粋言語だ。その反対に、ラテン語は、他の言語の語彙の中に入り込んでいるという一方通行の流用が行われているのみである。
 
 では何故、こんなに「試験に出る英単語」がラテン語オリジンばかりなのかというと、欧米人は、何かを知的な表現で気取って表現する時には、必ずラテン語の語彙から引っ張り出してくるのだ。我々日本人が漢語的表現(やまとことばではなく中国語オリジンの言葉を使う)をするのと一緒だ。だから、大学入試で出す長文読解の文章は、子供が話すような言葉ではなく、カッコいいラテン語を使うというわけ。
 加えて、英国の歴史も関係してくる。1066年、英国はフランス北部のノルマン人に征服された。すると英国の支配層がフランス人で占められ、英語の中に大量のフランス語が流入したというわけだ。フランス語は俗ラテン語の一種なので、それ故に、英語は、ゲルマン語を基礎としながらラテン語の語彙を豊富に持つという特異性を持つ、真にインターナショナルな言語に、その時代に生まれ変わったわけである。そしてコロンブスの新大陸の発見以後、大量のアングロサクソン人が北米に渡って、英語をますます広めたわけである。

 さて本題に入る。僕が一番得意な言語は、なんといってもドイツ語である。その次に、最近ではイタリア語が来る。イタリア語は、今でも毎週レッスンに通っているので語彙や会話には困らない。その次に、フランス語と英語が同じくらいのレベルで来るが、最近はフランス語の勉強をサボっているので、かろうじて英語がしゃべるのにはマシかな、という程度。
 それで、それぞれの言語というのは、文法や言い回しの癖や基本単語を覚えるのが大変だけれど、それを覚えてしまえば、特に上品な言い回しをするのは楽なのである。何故ならば、どの言葉でも(ゲルマン語のドイツ語さえも)、シケタンに出ているラテン語オリジンの語彙をそのまま使って会話できるからである。

 一番難しいのは最初に日本語から英語を学んだ時で、これは、文章構造から考え直さなければならない。
「これはペンです」
が、This pen isではなくThis is a pen.と並んで、しかもaって何だ?ということから思考を働かせなければならない。
 それに英語って、先の理由でフランス語などが混じっているため、発音の法則がバラバラなことが厄介で、実際に聞いたり辞書を見るまでは発音が分からない点が嫌だねえ。また英語って強引で、ラテン語オリジンだって、そのまま読まないで勝手に発音を変えちゃうでしょう。
 他の言語では、初めての単語も(例外はあるが)、辞書を引かなくとも法則さえ知っておけば、それに従ってだいたい間違いなく発音できるのだ。

 さて、英語を学んだあと、ドイツ語、フランス語、イタリア語に行こうとして、みんなが直面する壁がふたつある。まずは名詞に性があること。特にドイツ語は男性名詞、女性名詞の他に中性名詞というのがある。
 それと、文法的に言うと、フランス語やイタリア語に半過去inperfetto(完了していないという意味)という時制があること。完了形の反対で、行為が完了しているかいないかを問わないということだ。だから本当は、半過去という日本語はちょっと違うんだけどね。
 たとえば、
「僕が家に着いた時、雨が降っていた」
の場合、「家に着いた時」は完了形を使い、「雨が降っていた」は半過去を使う。何故なら、雨がいつ振り始めたかはどうでもいいから。
 その辺が面倒くさいけれど、反対から言えば、こういう点をクリアして、早く普通の会話をしたり、簡単な文章を読めるまでにしてしまえば、英語的発想を持っている人が第3外国語以上を習得するのは、日本語から英語を学ぶより全然簡単だ。

 逆に言うと、英語って、それ以外のヨーロッパ言語を習得した者にとっては、
「なんてラフな言語なんだろう!」
と思えるよね。性もないし過去形もラフ。おまけに敬称もないから、驚くことに大統領に向かってだって、普通にYouって呼びかけちゃうんだよね。今では、そのことにかなり違和感があるんだ。

 さあ、さっきも言ったように、みなさんも試験に出る英単語を覚えて、何語でもそれをその国語風に発音して(当てずっぽうでも結構いつも合ってます)、知的な雰囲気を出しつつ自由に会話しましょう!
 あとはね、ノリと勢いです。早い話、文法なんてどうでも良くって、単語を連発したっていいのです。日本人はお利口すぎてこれができない。けれど、みなさん、いいですか?欧米人って、みんな外国が隣り合っているので、必ず外国語で苦労しているのです。
 だから、きちんと相手の目を見て、いいたいことを全身で表せば、相手も必死で読み取ってくれようとするのです。自分がそうだから。むしろ、そのことによって、いいようのない連帯感が生まれ、日本人同士よりもずっと仲良くなれるのです。

だから、会話の本当のコツは「勇気」です!



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