「マエストロ、私をスキーに連れてって」Bキャンプ最終案内

 

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

「マエストロ、私をスキーに連れてって」Bキャンプ最終案内
 今週末の2月26日、27日には、「マエストロ、私をスキーに連れてって2022」のBキャンプが行われる。今日はその最終案内をします。前回のAキャンプでは、みなさん目に見える形で、それぞれに進歩が見られたので、ちょっとでも興味ある方には、ぜひ参加して欲しいのだ。

 僕にとって、スキーというのは特別な意味を持っている。これはスポーツというより、ある意味スピリチュアルなイニシエーションなのだ。僕は、スキーを通して大自然と戯れ、超越的存在の恵みを肌で感じる。重力と遠心力の拮抗の中に、物理的法則を超えた、もっと大いなる宇宙の法則を予感する。

 僕は、10年以上前、いきなりスキーに取り憑かれた。その時には、どうしてだか分からなかったけれど、ある予感と確信だけはあった。予感の方は置いておいて、確信の方から話そう。
 まず、自分がその予感に近づくためには、なるべく早く上手になる必要があると思った。これが確信。昔だったら、なんとなく、
「下手でも、別に本人が楽しんでいるのだから、いいや」
と、のんびりと構えていただろう。でも今は違う。時間がないのだ。人生、残り少ないのだ。

 ある時、たまたまテレビでやっていた上村愛子のモーグルを見て、
「あれを出来るようになりたい!」
と直感的に思った。
 ちょうどその頃、指揮者カラヤンについての対談を通して、親友のプロスキーヤー角皆優人(つのかい まさひと)君と再び密な交流が始まっていた。これも、すべてシンクロニシティでつながっている。僕が白馬に行って、彼から毎年スキーを習うようになるのは、必然的であった。

 コブが滑れるようになりたかったのに、角皆君は最初、ちっともコブを教えてくれなかった。ずっと整地でレッスンをしていた。結果的に言うと、彼は僕に、ただスキーの本質に沿ったレッスンをしてくれた。
 でも、彼に教えてもらってから自分ひとりでスキー場に行くと、いつの間にか少しずつではあるが、上達していた自分がいた。僕は、まだまだ下手っぴいなのに、果敢にも(無謀?)、コブ斜面に好んで行った。ハジかれて、空中に舞った。恐かった。でも楽しかった。なぜ楽しいのだろうか、と思った。そこにバロック音楽の浮遊感があったことに気がついた。

 10年経ったって、上村愛子のように滑れるわけない。でも、空中に舞うことなく、浮遊感だけは落ち着いて味わえるようになった。コブとバロック音楽の演奏は、本当に似ている。音が立ち上がって次につないでいく時の躍動感!タイでつながった音が拍を越える時、バロック音楽では音をジャンプさせなければいけない。ただしアレグロでない時には、ジャンプしそうでしない・・・つまり、ゆるやかなコブを越えるのと同じで、足を曲げて体重がゼロにはならないようにするのだ。
 スキーでは、ターンの切り替え時の「抜重」で、そのまま体感できるが、その感覚が表現できていない巷のバロック音楽の演奏は、泡の抜けた炭酸のようでつまらない。

「三澤さんは、スキーをしている時、どんな音楽が頭の中に流れているんですか?」
と、よく聞かれる。何かの曲を暗譜している時なんかは、実際に頭の中で音楽が最初から最後まで流れるよ。でも、スキーをしている時に、何かの音楽が鳴っているということはないし、鳴らしたくもない。だって、スキーに集中しているのだから(笑)。

 ただ、スキーの滑走を音楽的に体験することは、いつもやっている。つまり、
「今の深いコブを越えた時の抜重の感じって、バッハの「ロ短調ミサ曲」のCum Sancto Spiritu in Gloria Dei Patrisみたいだったな。実にスリリングだった」
とか、
「このなめらかなコブ越えは、メサイアのAnd he shall purify的だったな」
とかいう風に。
 運動性に溢れたコブほどバロック音楽とマッチする。本当に斜度の低い整地をゆっくり行くなら、「トリスタンとイゾルデ」前奏曲もアリかもしれないけれど、マーラー交響曲第5番のアダージョだったら、もう止まっちゃうわな。

 冗談はともかくとして、整地でも、スキー板が雪をズラしながら進む時、僕はバイオリンの弓にかかる圧や、声楽家の声帯にかかる圧をイメージする。逆に、カーヴィングがかかってキュイーンと疾走していく時も、輝きながら疾走するアレグロをイメージする。要するに、僕はスキーの滑走を全て音楽的に認識するということである。僕は、生まれながらにして「音楽的な人間」であることを意識している。

 新型コロナ・ウイルスが流行して、全ての仕事がなくなった一昨年の夏、僕はカトリック立川教会の聖堂に毎日ひとりで通った。瞑想するためである。その詳しいことは、今は省くが、それによって自分の精神が研ぎ澄まされるようになった。すると、自分がこれだけスキーにのめり込んでいる意味も、少しずつ分かりかけてきた。

 さて、10年前の予感と確信の内、予感の話をする。なるべく早くスキーが上達したかったのは、その予感が実現する日を早く見たかったからだった。間違いなく言えることは、その日が近いということだ。
 スキーは、間違いなく、僕を「覚醒」に導いてくれている。いつ、どのような形でそれが実現するか分からない。もしかしたら、それは僕がこの世を去る日かも知れない。あるいは、ある日、どこかのゲレンデで滑走中かも知れない。瞑想中かも知れない。
 とにかく、なにかがチラチラと見え始めている。僕にはもう人生で恐いものはない。死も恐くない。スキーをしていると、大いなるものに包まれている感覚があるが、それが最近、とても強くなっている。

 ええと・・・キャンプの勧誘から随分話が逸れました。オミクロン株がとっても流行っていますが、コロナなんか恐れないで(かつて感染した本人が言っているのだから間違いないです)キャンプに参加して下さい。恐怖心が免疫力を弱めるのは研究によって分かっているし、キャンプの参加は、きっとあなたに新たな何かをもたらしてくれると思います。僕が言っているのではなくて、僕を導くハイヤーなんちゃらが言っています。では、ゲレンデで会いましょう!

真生会館「音楽と祈り」2月講座
 先月の「音楽と祈り」講座の前に、「この講座の受講はオンラインでも可能です」と書いたら、沢山の方が参加してくれたようで、関係者が喜んでくれた。それなので、今回もどうぞオンラインでご参加ください

 昨年11月に、元NHKアナウンサーの山根基世さんが主催する「声の力を学ぶ連続講座」に呼んでいただいて、「ベルカント唱法から始まる表現の多様性」というタイトルで講演をした。今回は、それを基本にしてお話しする予定。
 とはいえ、山根さんのところは、アナウンサー関係の受講者が多かったので、講座の後半では、「歌う」という方向よりも腹圧を意識しながら「語る」方に重点を置き、受講者にセリフを読んでいただいた。

 それに対して、今回は、むしろ本来の「歌うためのメソード」としてのベルカント唱法から焦点をそらさないで語ってみようと思う。とはいえ、受講者に大声で歌わせるわけにはいかないので、やり方をいろいろ考えないといけない。

 コロナ禍において、教会でも感染を恐れて、一時は聖歌を全く歌わなくなった。最近になって限定的に歌うようにはなったが、なかなか大声を出して思い切って歌うことは難しい。しかし、本来、信仰生活に歌は欠かせない。
 僕の持論であるが、歌と聖霊との関係は深く、ミサでは歌うことによって信徒同士の「聖霊の交わり」が促進されるし、歌うという行為は、そもそも心に喜びを持たないと出来ないので、教会でのびのび歌えない信者の方達には、できれば自宅で歌ってもらいたいのである。
 その際に、自分自身への指針として、何に気を付けたらより美しい声で歌えるか試みながらできれば楽しみも増えるでしょう。
それなので、後半では、むしろ歌と信仰との結びつきなど、真生会館独自の内容を展開することになると思う。

 また、それとは別に、先月の講座の最後に質問として出たことをすこし掘り下げて語ってみたい。
「三澤先生は、世界を音楽的に認識するということですが、それは一体どういうことですか?」
 先ほどのスキー・キャンプの項でも書いたことである。その具体的内容に関しては・・・ええと・・・これから考えるので・・・どうか、みなさん講座にオンラインでいいから受けてくださいね!

 今日は、これから新国立劇場新規の団員募集のためのオーディションに出掛けます。明日と明後日は、現団員の試聴会があります。オーディションはいいのですが、試聴会は、僕にとって一年で一番憂鬱な時です。何故なら、一生懸命頑張っている現メンバーを、場合によっては落とさなければならないから。
 でも、新国立劇場合唱団がハイレベルでいることが、日本全体の合唱レベルを保つために貢献するのであれば、とにかく公平な審査をすることが求められることであり、それによって、この合唱団が、みんなが憧れる夢の合唱団になるのだ。

 僕の個人的な感情など取るに足らないのである。そこも修行の内だね。精進しなければ。
では行ってきます!



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