京都の日々~後半

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

10月26日水曜日
 今日は、ロームシアターでの「蝶々夫人」一回目公演と二回目公演の中日で、オフ。朝から鞍馬寺を目指して出発。まず地下鉄で終点の国際会館まで行く。そこから少し北に歩いて、叡山電車鞍馬線の岩倉駅まで行って、終点鞍馬駅まで乗る
 鞍馬寺は、2017年の秋(11月6日の「今日この頃」)にも訪れているが、その時は大きな台風の直後で、お山も木が倒れたりいろいろ被害を受けていて、鞍馬寺から奥の院を通って下の貴船神社まで行く山道コースが閉鎖されていた。今回は、そのコースを是非辿ってみたいのだ。

写真 真っ青な空を背景にした紅葉の鞍馬寺
秋の鞍馬寺

 電車の駅からかなり高い所に位置する本堂からは、もう下り坂しかないかと思っていたら、奥の院までの道の4分の3は、予想に反して登り坂で、しかも結構急で息が切れた。さらに、奥の院を通り越したら、またまたちょっとだけ登り坂、でも間もなく、貴船神社に向かっての下り坂が始まった。

 それは、なかなかワイルドな冒険でした。まず道に木々の根がかなり張っていて、行く手を阻んでいる。それから始まった下りの坂道は、まるで谷底に向かって一気に墜ちていくほど急で、石や木で道が補強されて階段のようになっているものの、手すりはないし、もしその石がはずれたり、自分がうっかり足を踏み外したら、山の底まで真っ逆さまに滑落するのは必至で、しかも僕の他には、この山中誰もいないようなのだ。
 上を見ても、空が見えないほど木々で覆われていて、昼間なのにうっそうとして暗い。ちょっと命の危険を感じて恐くなったが、降りるリズムが決まってきたら、逆になんだか楽しくなってきた。ただ、どんどん進む内にだんだん膝がヘロヘロになってきた。そうか、“膝が笑う”というのはこういうことか、と気が付いた。そうこうしている内に、やがて木立の陰からチラチラと家の陰が見えてきて、貴船神社の鳥居のすぐ下に着いた。

 京都一のパワースポットとも言われている貴船神社は、5年前と変わらず、凜とした気が漂っている。ミーハーだけど、水おみくじというのを買ってみた。紙には何も書いていないのだけれど、清水が湧き出ているところで水に浸すと、やや!不思議!だんだん字が現れてきた。僕は、おみくじ運は最低で、大吉なんて出ることはほとんどないのだが、その日は珍しく大吉が出たぞ。

写真 水面に浮かぶ大吉の水占おみくじ
水おみくじの大吉

 それから、元来の本殿だったと言われている奥宮に、坂道を登って辿り着き、お参りした。急に風がとても冷たくなった。標高としては鞍馬寺の方がずっと高いはずなのに不思議だ。本当に空気が変わったのだ。体にエネルギーが入ってくるのが感じられた。

写真 森に囲まれた貴船神社の奥宮
貴船神社奥宮

 もうお昼頃には里に戻ってきた。すると、足ばっかり疲れていて、上半身が動き足りなくて欲求不満になっている。そこで、先週も書いたけれど、西京極運動公園内のアクアリーナに行った。泳ぎながら上半身が喜んでいるのを感じたのは勿論だけれど、足腰もね、長いウォーキングの間に上半身の重さがのしかかってズンと硬くなっていた筋肉が、重力から解放されて、しなやかさを取り戻しているように感じられる。水泳ってね、ある意味無重力の宇宙遊泳的な気分を味わえるよね。

 その晩は、僕も理事をしている京都ヴェルディ協会理事の一人のOさんが、ご自宅に僕を招待して下さった。彼は、四条烏丸のすぐ近くで、夜だけ開いているワインバーを営んでいたので、京都滞在中に遊びにいこうとしてメールを送ったら、コロナ禍で、「アルコール禁止」とか「8時まで営業」とか、いろいろ制限を掛けられている内に、すっかり調子が狂ってしまったので、閉店してしまったという。こういう店、いっぱいあるんだろうな。

 Oさんは、僕がバイロイトで働いている時に、何度も来たほどのワグネリアンでもあるので、奥様のおいしい料理(彼もお店を出していたので、彼の料理もなかなか)を堪能しながら、次の講演会のテーマを決めたり、ヴェルディやワーグナーのお話しに夢中になったり、尽きない語らいが続く中、いつしか夜が更けていった。

バイロイト2022の本音トーク Part 2
 「神々の黄昏」終幕。「ラインの乙女」のライトモチーフにワルハラ城のモチーフがかぶりながら、ラグナロク(世界の終末)の音楽が進行していく。同時に「愛による救済」が響き渡っている。
 やがて盛り上がって弦楽器が没落のモチーフを奏で、音楽が突然静止する・・・・コルネリウス・マイスター君のゲネラル・パウゼは長い!うううう・・・長すぎるかな・・・というギリギリのところで、「愛による救済」の音楽がゆったりと大河のように流れる。

 やはり感動的な瞬間だ。そして「ラインの黄金」の変ホ長調という「宇宙の原初の音楽」で響き始めた長大な四部作の楽劇「ニーベルングの指環」は、変ニ長調で今や静かに終わろうとしている。
「次に来る新しい世界が愛に満ちたものでありますように・・・」
という願いと予感を感じさせながら・・・・。

 沈黙・・・・しかし、それを破ってバイロイト祝祭劇場いっぱいに響き渡ったのは、
「ブーーーー!」
という大きな掛け声。
続いてまた、
「ブーーーー!」
勿論、拍手と、
「ブラボー!」
の掛け声も混じって、ブーとブラボーの応酬となる。

 この「ブー」は、基本的には、演出家のヴァレンティン・シュヴァルツに向けられたものであったけれど、それを聞いた瞬間、僕の中には、いいようのない感動が走り、涙が込み上げてきた。
「ああ、戻ってきたんだなあ・・・・」
 この、演出家や指揮者や歌手達の上演までの努力を、全く顧みることのない傍若無人な掛け声。舞台上での表現者による精一杯の披露をもはるかに凌駕する、“聴衆としての”表現!それが、正直で真摯な「ブー!」。さらにそれに異を唱える者達の「ブラボー!」という表現。拍手。それらの混じり合った劇場の喧噪!

 コロナで蓋をされ、隅に追いやられ、足で踏みにじられてもなお、抹殺することのなかったこのエネルギー!舞台上だけでない、祝祭劇場が一体となって創り出す、この空間が、今こそ再び生まれたのだ!解き放たれたのだ!
これこそ芸術の力!
いのちの叫び!
バイロイトは生き返った。世界は再び甦った!

「急遽」多発状況
 NHK・FMのバイロイト音楽祭放送の解説を頼まれて、NHKから送られてきた音源を聴きながら、同時進行で、インターネット上の様々な案内やコメントや批評を読みあさっている。

 新型コロナ・ウィルスの感染拡大の影響を受けて、バイロイトでも、2020年は完全に上演中止、2021年は部分上演であったが、2年間のブランクを経て、今年は再び過去のようにフル稼働の年となった。

 「トリスタンとイゾルデ」の新演出で、コロナ以前に当然のことのように行われていた、7月25日のバイロイト音楽祭の開幕。それに続いて、本来2020年に予定していたヴァレンティン・シュヴァルツValentin Schwarz新演出による「ニーベルングの指環」の4部作と、その間を縫って、「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」が次々と上演された。
 しかし、そのプリミエまでの日々、及び、プリミエが始まってからも、音楽祭は順風満帆という状態からはほど遠かった。

 コルネリウス・マイスター君は、元々「トリスタンとイゾルデ」でバイロイト音楽祭デビューを果たす予定であったが、「ニーベルングの指環」(リング)の指揮者であったピエタリ・インキネンが突然新型コロナウィルスに感染したため、コルネリウス君は、急遽「リング」の方の指揮を打診された。
 彼は、「リング」は勿論過去に指揮したことがあった・・・とはいえ、いきなりバイロイトの集中的全曲演奏だよ。「ラインの黄金」と「ワルキューレ」は続いて演奏するし、その後1日ずつ休みを置いて「ジークフリート」と「神々の黄昏」を上演する。そのチクルスが3回。本番が始まってしまったら稽古もない。
 本来ならば周到な準備をして臨みたいよね。しかし、初日が差し迫っている中、指揮者が倒れて、祝祭劇場の公演開催そのものが危ぶまれている状況下。彼に迷っている選択肢はなかった。
 ということで、コルネリウス君は「トリスタン」のプロダクションから離れ、初日のわずか10日前に「リング」のプロダクションに飛び込んだ。で、「トリスタン」はどうなったかというと、マルクス・ポシュナーMarkus Poschnerが急遽引き受けた。彼もバイロイト・デビュー。コルネリウス君同様、初日の10日前であった。

 音楽祭が始まってからもいろいろあった。「ワルキューレ」第2幕の途中で、ヴォータン役のトマシュ・コニエチュニーTomasz Koniecznyの座っていた椅子の背もたれがいきなり外れ、彼は背中から床に激しく叩き付けられた。
 それでも果敢に2幕終わりまで歌い続けたというが、第3幕をとても歌い続けられる状態ではなく、急遽「神々の黄昏」のグンター役で乗っていたミヒャエル・クプファー=ラデッキ-Michael Kupfer-Radeckyが代役で出て、演技しながら歌い切った。
 僕もその録音を楽譜を見ながら聴いたが、多少の付点音符のリズムが甘かったり、音の伸ばしが短かったりした以外は、ミスらしいミスはなかった。ただね、クプファー・ラデッキーの声には、コニエチュニーほどの張りと存在感は望めなかった。
 まあ、これは仕方ないだろう。それを知った後で「神々の黄昏」のグンターの歌唱を聴いたが、気弱なグンターにはピッタリだ。その意味では、ベスト・キャスティングだ。

 「神々の黄昏」では、シュテファン・グールドStephen Gouldが急にキャンセルしたため、クレイ・ヒリーClay Hilleyが、イタリアでのバカンス中、急遽バイロイトに呼び出され、わずか1日しか立ち稽古の時間が与えられなかった状態で舞台に立ったという。彼も、録音を聴く限り、やはり立派に務めを果たしていた。

 こんな急遽ばっかりの状態の中で、よく公演を中止することなくできてしまうよね。こういうところに、ヨーロッパ・・・とりわけドイツの底力を感じるよ。あんな歌詞も多く、メロディーも複雑なワーグナーの主役なんて、そんな簡単に飛び込んで演技しながら歌えるもんじゃない。ちなみに、そんな芸当ができるヴォータンやジークフリートは、残念ながら我が国にはひとりもいない。

テオリンのインタビュー、しかしその後に・・・
 NHKから送られてきた、「神々の黄昏」の中継放送の第1幕と第2幕の間には、ブリュンヒルデ役のイレーネ・テオリンのインタビューが行われていた。インタビューする人は、テオリンに向かって、
「スエーデン出身のあなたは、同じ国の往年のビルギット・ニルソンの弟子でもありますね。ニルソンからワーグナーに関する何らかのコツを学びましたか?」
と質問し、テオリンは、
「ニルソンとよく並べられますが、それは私にとってとても光栄なことです」
などと答えているが、そのテオリンが「神々の黄昏」全曲終了後に、強烈な「ブー」を浴びることになるのは、なんとも皮肉なことだ。

 あるドイツ人の批評家は、
「テオリンの歌う歌詞はひとことも聴き取れなかった」
と書いていた。それもそうだが、そもそもの原因はもっと深いところにあると僕は思う。

 それは、
「ワーグナー歌手はオケを突き抜けるような大きな声の持ち主でないと務まらない」
という迷信のせいである。

 少なくとも聴衆の内の何割かはワーグナー歌手にそれを期待している。それに応えるべく、人並み外れた声量を持つ歌手が次々と現れては、声量に声楽的テクニックが追いついていかなくて、コントロール不能に陥り、いずれは表舞台から消えていくという悲劇が繰り返し起こっている。

 テオリンも、そうした危険性を持つ歌手のひとりである。彼女はすでに何度も新国立劇場に来ていて、トゥーランドット、ブリュンヒルデ、イゾルデなどを歌っているが、僕は彼女のテクニックとしてのソット・ヴォーチェを聴いたことがない。そのギラギラと輝く巨大な声には敬意を表するけれど、それを彼女から取ってしまうと、後には音楽的にほとんど何も残らない。
 今回の「神々の黄昏」に辿り着く前から、すでに「ワルキューレ」や「ジークフリート」において、僕は同じ事を感じていた。今回は特に、ビブラートの域を大きく越えた声の揺れと、歌詞の不明瞭さ、そしてフレージングの欠如と一本調子の歌を感じ、先行きに大きな不安を持っていた。

 しかし、さすがバイロイトである。「神々の黄昏」における「ブリュンヒルデの自己犠牲」を聴いて、
「これでブラボーの嵐になったら、やりきれないな」
と思っていたら、あれほどの「ブー」が出た。
 これこそ、健全な反応である。というか、
「ここまでは許すけれど、ここからは許さないぞ」
という、判断力を持った聴衆の決意表明なのだろう。話は拡大してしまうけれど、こういうひとりひとりの責任感ある姿勢から、西洋では民主主義というものが生まれたのだろう。

まだ終わっていないのに批評?
 この「神々の黄昏」の音源ファイルには、もうひとつ、とても興味深いものが入っていた。第2幕終了後の幕間では、3人の批評家が呼ばれ、これまでの「リング」に対する批評がそれぞれの批評家によって語られたのである。まだ完結していない進行中の「リング」の批評だよ。おいおい、いいのかい?
 たとえば、指揮者のコルネリウス・マイスター君に関しては、2人の批評家がノーを突きつけた。ひとりは、
「バイロイト祝祭劇場らしい音が鳴っていない」
というのが主な理由だったし、もうひとりの批評家も、音響的な問題を指摘しながら、
「強引なテンポ設定や突然の不自然なリタルダンドなどに、歌手やオケが付いて行っていない」
と述べていた。
でも3人目の批評家は、
「今回指揮を担当するはずだったインキネンの『リング』を昨年聴いたが、場所によっては耐えられないくらい遅く演奏していた。それから比べるとマイスター氏の演奏は、正しくドライブして物語をきちんと前に進めている」
と言っていたので、
「そうそう、その通りだ」
と思った。さらにその批評家は、
「初演の直前に飛び込んだせいで、コンタクトに難があるのは聴いての通りだが、それはこの先の第2第3チクルスで自ずと矯正されてくるのではと期待している」
と結んでくれた。

 舞台上の歌手とオケとの齟齬などは、僕も確かに感じたが、仮に充分な準備ができていない状態で本番が始まってしまっても、指揮者は、とにかく自分のやりたいテンポでやりたい音楽を、失敗を恐れないで構築し続けることに尽きる。
 オケの慣れていたテンポや音楽作りに、新米だからといって押されてしまったら、クリエイティヴなものは何も生まれないので、僕はコルネリウス君のアプローチは決して間違っていないと思う。可能ならば、千穐楽の音楽を聴いてみたかったな。

 ちょっと反発したいことがある。それは
「バイロイト祝祭劇場らしい音って何だよ?」
ということだ。
 僕だって祝祭劇場の音は知っているよ。でも、そんなこと言ってるから、いつまで経っても、あの耐え難い遅いテンポのワーグナーが巷に充満しているのだ。特に「リング」では、あのもったいぶった“哲学的?”な(といえば聞こえがいいけど)、要するに“肥満したサウンド”なんて要らないんだよ。むしろ、とっとと物語を前に進めて欲しいんだ。

 また、コルネリウス君は、随所でハッとするような急なリタルダンドをかけたりしているが、それをオーケストラや歌手達が充分理解したなら、二人目の批評家の言っているunorganisch“反有機的な音楽進行”なんかでは決してなく、ひとつの主張と成り得るのは必至である。
 むしろ僕にとっては、今の時点で、
「へーっ、なるほどな・・・ここ、次に演奏する時、パクっちゃおうかな!」
と思える個所がいくつかある。

 歌手に関しては、エルダ役のオッカ・フォン・デア・ダマラウOkka von der Damarauの深い歌唱力や、ジークリンデ役のリーズ・ダヴィッドソンLise Davidsonの若々しい鮮烈な表現力、あるいはフリッカ役のクリスタ・マイヤーChrista Mayerの威圧性は、3人の批評家から絶賛されていたし、僕も同感であった。一方、男性歌手に関しては、多少意見が分かれていたかな。

しあわせなワーグナー体験
 こんな風に、あそこがこう・・・ここは気に入らない、などと勝手にイチャモンつけながら鑑賞するのって、本当に楽しい。指揮者としても、今度指揮する時には、こうしようああしよう、と、新しいアイデアがいろいろ出てくる。愛知祝祭管弦楽団でも、「リング」をもう一週やりたいな。
 NHKであらたまって解説などしないで、こうして「今日この頃」で、無責任に好きなこと書きっぱなしでいいならもっと楽しい・・・おいおい、それじゃ何のために聴いているのか、分からないじゃないか・・・あ、そうか・・・テヘヘ・・・。

 今日の時点で「リング」の4部作は聴き終わっているが、今(10月31日月曜日、午後2時)こうして原稿を見直ししてから、ちょっと出掛けて、どこかでコーヒーでも飲みながら「トリスタンとイゾルデ」を聴く予定。
 その上で、もう一度、こんどはいろいろチェックしながら「ラインの黄金」から聴いていこう。ワーグナーの鑑賞は、本当に時間が掛かるので大変。でもね、自分で言うのもナンですが、僕は本当にワーグナーが大好きなんで、苦にならないんだよね。

なんとも“しあわせ”なひとときが今後も積み重なってくる、今日この頃です!



Cafe MDR HOME


© HIROFUMI MISAWA