「創造主への賛歌」の作曲

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

「アイーダ」順調に進んでいます
 この原稿を書き終わったら、午後からは、「アイーダ」の舞台稽古に出掛けます。「アイーダ」のことについては、来週報告します。というのは、歌手達、来日して一緒にスタジオで立ち稽古していたのだけれど、主役達はみんな1オクターブ下げて歌ったりしていて、本気出さないのでコメントができないんだ。一流歌手達には違いないんだけれど。
 もともと「アイーダ」って、スペクタクル・オペラで、あまり細かい演技もないし、舞台稽古に行かないと響きも含めて本当のことは分からない。まあ、オリジナル演出家のフランコ・ゼッフィレリはとっくに死んでしまっていて、粟國淳(あぐに じゅん)さんが、素晴らしい手腕で立ち稽古を進めていることは書いておこう。
 淳さんは、最近ますます冴えている。頭が冴えているだけでなく、演技や音楽や舞台に対する情熱が伝わってくるのがいいね。舞台装置はエジプトそのもので圧倒的なセットです。7回公演もあるのに、チケットはほぼ完売だそうです!

暖かい春、僕のラスト・ラン

写真 国立駅周辺の夜桜
国立駅周辺の夜桜

 今年の春は異常に暖かく、国立の桜も例年よりずっと早い。もうほぼ満開。一方、ゲレンデでは、雪の代わりに雨が降り、雪がどんどん溶けていく。どのスキー場ももうすぐ閉鎖を余儀なくされ、あの白馬でさえ連休までもたないだろう。
 そんな状態の中で、僕のスキーはあと2回と決まっている。まずは、今週のどこかの日に春休み中の孫の杏樹を連れてガーラ湯沢に行き、彼女を午前中、キッズ・スクールに放り込んで、自分だけの練習をし、午後は一緒に滑るつもり。ジジ自慢じゃないけど、杏樹はもう最上クラスだからね、急斜面だって同じくらいの速さで滑るから、どこだって一緒に行けるんだ。
 そしてファイナルは、4月6日木曜日7日金曜日の日程で白馬五竜に行き、6日午後に角皆優人君にコブの個人レッスンを受けて、7日に最後の練習をして、雪山に別れを告げる。そしてまた、次の冬を指折り数えるんだ。

「創造主への賛歌」の作曲
 昨日(3月26日日曜日)は、新国立劇場の「アイーダ」の立ち稽古が急に休みになったため、珍しく丸一日空いたので、ほぼ一日かけて聖フランシスコの「創造主への賛歌(俗に太陽の賛歌)」の作曲をしていた。

 長女の志保もオフ日だったので、彼女は朝から娘の杏樹を連れて、美術館に行ったり、東京の春音楽祭の子供オペラ「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を観に行ったりしていたし、妻も教会に行ったりで居なかったため、誰にも邪魔されることなく、たっぷりある時間を最大限に使うことが出来た。
 お昼を食べる事も忘れて作曲に没頭していて、気が付いたらもう1時半。忘れていたけど、そういえばめっちゃお腹がすいている。自転車を飛ばして行けば、ちょっと遠いけれど美味しいところに行けるんだけど、残念ながら雨が降っている。急いで傘さして、歩きで近くのガストに行って、当てずっぽうで鶏肉料理を選び、ドリンクバーのカフェラッテやカプチーノをおかわりして、帰って来て少しお昼寝して、また作曲。

 作曲って、進む時はどんどん進むのだけれど、少しでも違和感があると、また自分で積み上げた積み木をガラガラガッシャーン!と壊す。で、また振り出しに戻る。ひとつの和音の第5音を上方変位や下方変位させるだけで表情はガラッと変わる。ドッペルドミナントを1音変えてディミニッシュコードにしてみたり、また戻してみたり・・・・。
 和声進行は微妙な心理状態や表情の変化を映し出す。最初は良いと思っても、何度もピアノで弾いたり、譜面作成ソフトの自動演奏で客観的に聴いたりすると、ちょっとした表情に違和感を感じる。それで、そこを変えるだけではなく、3つ前の和音にまで戻ったりする。これはねえ、苦渋の選択で、面倒くさくて辛いんだけど、それでいてね・・・結構ハマるんだよ。
 ドンピシャリの和音が見つかって意図した心理状態を表現できた時なんか、バンザーイって、椅子から立ち上がって、まるで大谷翔平がホームランをかっ飛ばした時の応援団のような動作をしている自分に気付く。作曲って、地味なようでいて、めっちゃエキサイティングな行為なんだ。少なくとも頭の中では、アドレナリン出まくりなんだよ。

 で、夕方、とにかく最後まで行った。ふうっ、もうクタクタ。っていうか、頭の中がほとんど膿んでいる。でもね、これで終わりではない。むしろここからが出発点で、今は、最初の発酵を終えた新酒の状態。
 まず僕は、この曲に近づきすぎているので、ちょっと寝かせて、膿んでいる頭を治し、日にちを置いて、次に樽を開ける時には、今度は人の曲のような冷めた視線で向かい合い、とことん突っつきまくる。まあ、最初から振り出しに戻ることはないだろうけれど、場合によっては、かなり大胆な変更を施すこともある。
どこかで読んだけれど、ある人が村上春樹氏に、
「推敲って、いつまでやるんですか?」
と訊いていた。村上氏は、
「やっている時には分からないんだけど、やっていて、『あ、終わったな』って思う時があるんだよ。その時が終わり。あとは一字一句変えない」
と答えていたが、分かる分かる。僕もそれからは基本的には1音符も変えないんだ。とかなんとか言ってながら、実際に練習が始まってみたら、
「あ、ここ歌いにくそうだね。この音に変えちゃえ!」
とかは、よくやっているなあ。

 バッハやベートーヴェンには足元はおろか逆立ちしても及ばない、こんなレベルの僕でも、作曲している時には、何かが降りてきているのを感じる。崇高なあたたかいものに守られているのを感じる。キリスト教に籍を置いている僕であるが、冷たい教義にはいつも違和感を感じる一方で、神というものの存在を疑ったことが生まれてから一度もないのは、この臨在感があるからだ。

「僕は上とつながっている」
「僕は愛されている」
「僕は守られている」
という想いから、僕は日常でも離れたことがない。その中でも特に、作曲している時と、本番で指揮している時は、まさにつながっている感100パーセントの至福の時なのである。

 さて、新しい曲ができて、アッシジの街がまたひとつ近づいて来たぜ!聖フランシスコが僕を呼んでいるのだ。みんな、僕と一緒に行きましょう!アッシジの街へ!
もしかしたら、滞在中に何らかの奇蹟が起きるかもよ!

写真 雨上がりの虹が出ているアッシジのサン・ダミアーノ教会
アッシジ「San Damiano教会」(クリックで地図表示)
(雨上がりの虹 2006年の記事へ)

大谷翔平選手の言葉
 ちびまる子ちゃんの漫画で、まる子ちゃんがテレビの連載番組を観ようとしたら、風呂上がりでビールを持ったお父さんが、無理矢理野球番組を観てしまうというのがあった。
 
 そうとも、僕も、小学校の頃はプロ野球の中継に良い思い出がないのだ。こんな時には、父親対家族全員なので、多数決では負けるはずはないのだが、こんな時ばかり親父は、
「お前たちを食わしてやってるのは誰のお陰?」
とばかり、権威を振りかざし、一家に一台しかなかったテレビを独占するのだ。
 それに、野球って、サッカーと違って、各選手の労働量が極端に少ないだろう。見るからに働いているのは、ピッチャーとキャッチャーだけで、後は外野手なんて動き止まっているし、攻撃側なんて大部分はベンチに座っているだけじゃない。だいたいガム噛みながらやるスポーツなんて他にないだろう。100メートル走の選手がガム噛むか?モーグルの選手は?水泳自由形の選手は?

 何を言っているのかというと、あのですねえ、WBCの試合、日本を応援していたんだけど、最初から最後まで通しで観た試合は1本もありませんでした。だって時間帯が微妙だし、だらだら長いんだもん。ということで、みんな夜の報道番組の中で、解説付きのダイジェストで観ただけなんだよね。
「俺がしっかと見届けたんだぜ!」
とは威張れないし、
「ああ、勝ったんだ!」
という感じなので、この記事に関しても、偉そうに書ける立場ではないことを断っておきますが、凄く喜んでいることだけは言っておきたい。

 また、「これだけは言っておきたい」というのがもうひとつあります。それは、大谷翔平選手が、決勝試合が始まる前に、他の選手達に向かって言った。いわゆる「ショーヘイ・スピーチ」のこと。

「僕から一つだけ。(相手チームの選手たちを)憧れる(Respect)のをやめましょう。
ファーストにポール・ゴールドシュミット(カージナルズ)がいたり、センターを見ればマイク・トラウト(エンジェルズ)がいたり、外野にはムーキー・ベッツ(ドジャーズ)がいる。
野球をやっていたら誰しも聞いたことがあるような選手たちがいると思う。
しかし、憧れてしまっては超えられない。
僕らは今日、彼らを超えるために、トップになるために来たのだから、今日一日だけは彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけ考えていきましょう。
さあ、行こう!」
 この言葉に僕は激しく共感する。まさに大リーグを知り尽くした大谷選手が、真にインタナショナルな感覚を持っている証しだ。しかし、日本人の選手もここまで来たんだね。それを聞いた彼らが、実際に結果を出して、あのベースボールの本拠地であるアメリカに勝ったんだぜ。凄いことだよね。
 芸術もそうだけど、新型コロナ・ウィルス感染拡大が始まった頃、こうしたイベントそのものが不要不急のものとして社会から遠ざけようとされた。しかし、どうだい。たかがベースボールじゃないんだよ。この高揚感。勝利の知らせを聞いただけで、これだけの勇気をもらうことができるんだぜ。こうしたことは、人間が実際に生きていく上でとっても必要なことなんだ。

 さて、大谷選手には全然及ばないかも知れないが、実際に僕が、新国立劇場合唱団に対して指導している時に思っていることも、まさにこういうことだ。僕はワーグナーの殿堂であるバイロイト音楽祭の祝祭合唱団も知っているし、ノルベルト・バラッチュの指導も知っている。また、イタリア・オペラに関しても、ミラノのスカラ座合唱団も知っている。 そして具体的に、どこがどのように彼らにかなわないかも微細に分かっている。しかしながら、現在僕がワーグナーやイタリア・オペラの合唱を指導する時、自分が理想としているのは祝祭合唱団でもなければスカラ座合唱団でもない。
 そして、日本チームがアメリカ・チームに勝てたように、どうすれば勝てるかも分かっているし、そもそも彼らを目標にしているのではないから、勝敗にもこだわっていない。むしろ、今のマテリアル(合唱団員のスキル)を使いながら、どのように自分の理想の姿に持って行けるかだけを考えているのだ。
 大谷選手も恐らくそうなのだと思うし、大谷選手に鼓舞されて戦った彼らひとりひとりも、自分のスキルをどう試合に生かしていくのかだけ考えて戦ったのだと思う。
まさにサムライの心意気だね。



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