「タンホイザー」立ち稽古無事終了
西新宿の超高層ビルが建ち並び、空が狭く遮られている間を、夕暮れ時になると、羽田空港に着陸しようとする飛行機がひっきりなしに飛んで行く。しかもかなり低いので、機体は下から驚くほど大きく見えるし、音も結構する。
その下に、小学校の校舎を改造してスタジオにした芸能花伝舎がある。二期会は、ここを「タンホイザー」の立ち稽古の稽古場にしていたので、僕もここに通っていた。でも昨日(2月18日日曜日)の4回目の通し稽古で終わったので、今日からは小田急線黒川駅前にある読売日本交響楽団の練習場でオケ合わせ。その後は、いよいよ東京文化会館に入って、舞台稽古に突入していく。
タンホイザー役のサイモン・オニールは、初役と見えて、最初の方は音取りもおぼつかいほどだったが、演技も慣れてきて、歌も体に入ってきたら、やはり素晴らしい歌手だ。僕のZoom指揮レッスンの生徒である小山祥太郎君は、今回も副指揮者で入っているが、同時にプロンプター(歌手がフレーズを歌い出す直前に歌詞を出してあげる役)として頑張っている。オニールの暗譜が危ういので、最初は全部歌詞を言っていたけれど、それもだんだん少なくなってきた。
僕も、二期会のアシスタント時代、よくプロンプターをやった。ドイツの歌劇場に長くいた木村俊充さんは、メロディーが完璧に入っているのに歌詞を全然覚えていなかったが、それでもドイツではプロンプターが優秀だったので、本番をつつがなくできたのだと自慢していて、僕にも、
「お前も完璧に出せよ。そのためには、こうやって・・・こうやって・・・」
と教えて(シゴいて)くれたので、それを小山君にも伝授した。
プロンプターをやると、歌詞が覚えられていいのと、舞台上にいる歌手達のその瞬間の心情が伝わってきて、ある意味一体感を覚えるんだよね。
指揮者のアクセル・コーバーが素晴らしい。オーケストラ練習に行ってきた副指揮者によると、オケとの関係がとても良好で、素晴らしく仕上がっているとのこと。彼は真面目だから、昨日も、黒川でのオケ練習を終えて、5時には芸能花伝舎に来てB組の通し稽古を振り、ソリストにも合唱団にも細かいダメを出している。
合唱団のことはとても気に入ってくれているが、出すダメが細かいので笑える。たとえば、
「gesegnet, wer im Glauben treuという無伴奏男声巡礼合唱の個所で、gesegnetのgeの曖昧母音とseの閉じたeはいいけれども、gnetの曖昧母音が開いたエになり過ぎるよ」
とか、
「第2幕歌合戦の途中のDer holden KunstのKは、そんなに暴力的に強調しなくてもいいよ。やさしい芸術という意味だからね」
とか言うんだ。でも、その後で、
「ヒロがここまでやってくれているから、つい言ってみたくなるんだ」
とも言ってくれる。
さあ、この原稿を見直したら、黒川に行ってきまーす!
苗場スキー場での一日
2月14日水曜日。大宮を7時29分発の新幹線『とき303号』新潟行きに乗ると、高崎も通り越してノンストップで8時10分に越後湯沢に着く。そこから8時20分発の南越後観光バスに乗る。先週のかぐらスキー場には8時38分に着いたが、苗場スキー場着は8時58分だから、さらに20分乗ることになる。料金は、かぐらが400円だけど、苗場までは700円。
例によって交通系ICカードは使えないから、目的地が近づいて来ると財布から小銭を出しておかないといけない。前の日くらいから、お釣りを貯めておいたら、財布の中が小銭だらけになってしまった。間違えないようにちゃんと数えて100円玉7枚をずっと握っていたら、苗場スキー場に着いたときには人肌に暖まっていた。「あはは、子供みたいだな」と自分で笑った。
停留所の目の前には立派なエントランスの建物がある。シュネーと言う。つまりドイツ語でSchnee「雪」の意味だ。ここから川を渡ると、リフト券売り場や、ロッカーや着替え所のあるスキー・センターに辿り着く。ここはドルフDorf(ドイツ語で村の意味)と呼ばれる。なかなかモダンじゃないか。苗場、やるな・・・と思ったのも束の間。
このドルフでJRSKISKI(JRびゅうトラベル)の日帰りプランに含まれるリフト券をもらった。いや驚いたなあ。かぐらは仕方ないとしても、さすがに苗場スキー場ともなれば、いくらなんでもリフト券は電子カードでしょう、と思っていたが、これもまさかの「紙のリフト券」だった。もしものために、先週のかぐらスキー場で買ったリフト券ホルダーを持って来ておいて良かった!
苗場よ、お前もか?
朝の快晴苗場
苗場コースガイド (出典:苗場スキー場)
頂上を目指して
頂上から赤城山の裏を眺める
いざ頂上から!
午後の光を浴びて雪が溶ける!
帰りのバスから全景
一度だけ小澤征爾さんのことを書きます
小澤さんのことを書くの、気が重いんだよね。何故なら、国立音楽大学声楽科に在籍していながら指揮者を目指した時期、ほんのちょっとだけ小澤さんのことカッコいいと思い、小澤さんのような服を着てみたりした時があったけれど、その後はむしろそれを後悔し、否定するようなスタンスを僕は貫いてきたから。本当は、小澤さんというよりサイトウ・メソードを否定しないと僕は前に進めなかったのだ。
サイトウ・メソードと僕
何が引っ掛かっていたかというとね、先週も書いたけれど、あの頃は、小澤さんを筆頭にサイトウ・メソード全盛の時期で、サイトウ・メソードにあらずば指揮者にあらず、という常識が幅を利かせていたんだ。
巷に流れていた話では、サイトウ・メソードの指揮者に弟子入りすると、まず「叩き」と言われている“肘関節を中心とする物を叩くような運動”を徹底的にさせられという。「叩き3年」と言われ、これに精通するまでには3年掛かると言われている。
確かにこれは、放物運動を中心とした運動で、指揮の動きをなめらかにするために大切な運動だ。僕も、自分で映像を作ってYoutubeに挙げた「三澤洋史のスーパー指揮法」で取り上げている。
ただ、この「叩き」自体は非音楽的な運動なので、通常はほとんど使われないのだ。そのかわり、一度オーケストラがグチャグチャに乱れた時は、“完璧な叩き”さえ行えば瞬時に治る特効薬のようなものだ。
「サイトウ・メソードを習ったら、どんな時でもオーケストラをピタッと合わせられる。そのテクニックをもっているから小澤さんは“世界のオザワ”になることができたのだ。そのためにはまず叩きを徹底的にやる。それができないと前に進めないのだ」
ということがみんなの間で語られていた。
「叩きを3年掛けてやらないと前に進めない・・・嫌だなそんなの・・・僕は音楽をやりたいのに・・・」
と僕は勝手に考えて、抵抗感を覚えていたのだ。
もうひとつ抵抗感を覚えたことがあった。自分はサイトウ・メソードの指揮者に弟子入りしようとは思わなかったけれど、とにかくそれが何なのかは研究してみようと思い、斎藤秀雄氏の指揮法教程の本を買ってみた。するとその最初に、ベートーヴェン作曲、交響曲第1番第2楽章冒頭の振り方が書いてあった。これに僕は大きな抵抗感を覚えた。
その内容はこうだ。最初のアウフタクトには“先入”と呼ばれるテクニックを使う。先入とは半拍先に本来の打点の位置に入っておき、打点の瞬間に“跳ね上げ”を行うのだ。それから1拍、2拍は軽く叩く。また次のアウフタクトで“先入”。
ははあ・・・と思った。先入ってね、まさに小澤さんっぽい振り方だ。腰を曲げて前屈みになり、カマキリのように手を前に出して先入で振ると、簡単に小澤さんの真似ができる。
つまりサイトウ・メソードって、一方では「叩き3年」とか言っておきながら、実際には先入ばかりさせられるのだ。それを誰よりも忠実に守っているのが小澤さんだというわけ。
それよりも、もっと嫌だったのは、
「これって振り付けじゃん!」
と思ったこと。もう、こんな風に最初から最後まで決められちゃったら、自分がこういう音楽をやりたいと思っても出来ないじゃない、と思って僕の内面にもの凄い抵抗感が生まれたのだ。
現実に、あの頃はサイトウ・メソードの指揮者って一目で分かった。だって、本当にみんな同じ動きをするんだもの。それで、合わせること最優先で音楽的に内容のない指揮者が巷にうようよいたのも事実だ。
だから僕はアンチ・サイトウ・メソードを宣言し、一番そこから遠そうな山田一雄先生の門を叩いて弟子入りをし、その後ベルリン芸術大学指揮科に留学してラーベンシュタイン教授の元で満足しながら、ますます、
「サイトウ・メソードって絶対に違う」
という思いを強くしたわけだ。
ただね、その後、心配する必要も不安に思う理由もなかった。何故なら、サイトウ・メソード系の指揮者達が、みんな変わりだしたのだ。それと同時に、世の中の人たちがサイトウ・メソードのことを言わなくなったし、みんな、そこへのこだわりがいつしか消えていった。
井上道義さんの指揮の動きもナチュラルになったし、大友直人さんは指揮棒を持たなくなった。というか、小澤さん本人が指揮棒を持たなくなった。でも残念なのは、指揮棒を持たなくなっても、あの先入ばっかりの振り方は最後まで変わらなかった。
もう、ここまで言っちゃったから、隠さずみんな言うね。小澤さんでもうひとつ嫌なのは、イケイケの音楽ではいいのだけれど、彼の音楽の中に“静けさ”や“瞑想性”が欠けていること。この点ではカラヤンと真逆だ。
若い時はまだそれでも良かったかも知れないが、いつになっても、
「オレ、頑張っているんだ!」
じゃなくて、静かな音楽では、もっともっと全体を大きく捉えて、空間性を感じさせて欲しかった。
アシスタントを務めて思ったこと
前にも言ったけど、一度だけ彼のアシスタントを務めたことがある。1992年3月に公演したヘネシーオペラ。演目はワーグナー作曲「さまよえるオランダ人」。同じアシスタントには松尾葉子さんも名を連ねている。
ある日の、日本人キャストを前にした音楽稽古で、彼はこう言う。
「ここからここに移る転調が素晴らしいんだよね。きっと・・・・のような雰囲気なんだろう。だからこんな歌い方をしてみて!」
みんな目を丸くした。そっと顔を見合わせる者もいた。その転調が素晴らしいのはみんな知っている。だって、歌詞の内容が、次の転調を促しているのだもの。でも、そんな発言をしたということは、彼が歌詞の意味を全く知らないのが一目瞭然。だって、転調の理由が、彼が言っていることと微妙に違う。
その反面感心もした。物語を何も知らないで転調を感じるだけでそこまで予想した彼の感性は素晴らしいと思う。でも、せっかくオペラをやっているのだから、歌詞の意味は分かっておいた方がいいし、物語全体からその転調の意味を探った方が早いよね。
別の日、いきなり日本人キャスト全員が午後に呼ばれた。音楽稽古をするという。何故?このタイミングで?もうとっくに立ち稽古が進んでいて、小澤さんも立ち会っていたのだから、稽古の合間にいくらでも音楽の直しができたはずなのに・・・。
練習が始まった。小澤さんは譜面を見ないで指揮している。ほとんど通すだけ。たまに振り間違えたり、変なところで歌手達にアインザッツを出す。止まってしまう。小澤さんは頭をかきむしり、譜面を開いて確かめて、またそこからやり直し。今度はスムースに通る。こうしてどこも直したりしないで最後まで行った。みんな頭にきていた。
「これ、何の為の音楽稽古?なんだ、僕たちみんな、ただ彼の暗譜稽古に付き合わされただけ?」
その日の夜。オランダ人役のホセ・ファン・ダム、ダーラント役のハンス・ゾーティン、ゼンタ役のエリザベス・コネルなど外国人の主役達が、来日後初めての音楽練習を小澤さんと行った。小澤さんは、完全に譜面をはずして暗譜で練習を付けた。
昼間覚え切っていなかった個所を夜までに全て覚えてスムースに練習出来たのは、ある意味凄いとは思った。でもねえ、こんな風に外国人歌手達に良いところを見せようとして、日本人歌手をだしに使うのって良くないよね。
ウィーン国立歌劇場の小澤さん
良い音楽をしたいという想いは十二分に持っていた小澤さんだとは思うけれど、やはり上昇志向がもの凄いのだなと、「さまよえるオランダ人」の副指揮者として端で見ていて感じた。その上昇志向を逆手に取って、小澤さんを操ろうとした人たちがいた。
そして、そこに乗ってしまった事が、ストレスが原因の帯状疱疹をはじめとして、彼の様々な病を引き起こし、その果てに、彼の死期を早めてしまったのではないか、と僕には思えてならない。
ウィーン国立歌劇場からは、彼の訃報に接し、このような言葉が贈られた。
「過去60年間の中で国際的に最も重要な指揮者の一人であり、当歌劇場の歴史をともに紡いできた」
小澤さんの人柄については、
「謙虚でコンサートやオペラ文学に造詣が深く、歌劇場の誰にとっても会話や議論のパートナーとなった。常に芸術的理想と共通の目的に向かう人だった」
と紹介されたという。
まあ、良くいうわ、と思う。とはいえ、公の世界では、このようになってしまうのだ。ウィーン歌劇場が何故小澤さんを監督に迎えたのかといえば、それはそもそも彼のオペラ指揮者としての実力とは全然関係ないところで大きな力が働いたからであり、そこに飛び付いてしまった小澤さんは、持ち上げられたり落とされたりという目に遭い、それから全てがネガティブな方向に向かってしまったのではないだろうかと僕には思えてならない。
音楽評論家の東条碩夫氏は、2007年5月17日木曜日の批評で次のように書いている。実際、小澤さんがウィーン歌劇場監督時代、どのように扱われていたかを知る貴重な批評である。
小澤征爾指揮ウィーン・フィルのマーラー交響曲第2番「復活」
ウィーン国立歌劇場 8時
前日、ウィーンに入る。
客の半分は日本人ではないかと思われるほどだ。私の席の周辺にも、ズラリと日本人グループがいる。
今回入手できた席は、前から5列目だ。オペラならいいけれども、オーケストラ演奏会では、こんな位置では音楽のバランスなどさっぱり判らない。しかも、ただでさえドライなアコースティックの歌劇場だ。オーケストラの量感などは全く味わえない。
とはいえ、演奏にはある種の緊張感があって、クライマックスでの高揚など、充分に聴きごたえがあったという気がする。両端楽章のテンポは速めだし、表情も相変わらず直截。彼のオペラよりは遥かに良かったことは間違いないだろう。
終演後に、現地のジャーナリスト、山崎睦に案内されて楽屋を訪れたが、客は日本人の「知り合い」ばかり。かつて小澤の終演後の楽屋といえば、世界の有名なアーティストやマネージャーが殺到していて、私など近づけないほどだったのに、これはどうしたことか。これが、ウィーンでの小澤の状況なのだろうか。音楽監督ともあろう人の楽屋がこういう状態なのか。
山崎の表現によれば、最近はいつもこんな状態だとのこと。そして、彼がこれまで振ったモーツァルトやシュトラウスのオペラがことごとく不評で、特にダ・ポンテ三部作での失敗は致命的だとのこと。さりとて彼が得意とするレパートリーはウィーン国立歌劇場のレパートリーとなる種のものではないので、結局来季のように、チャイコフスキーのオペラを、それもわずか1本だけ指揮する程度のことになってしまうのだと。
だから言わないことではない。小澤さんはウィーン国立歌劇場などという古い伏魔殿のような場所に来るべきではなかったのだ。
彼が同歌劇場の音楽監督になると発表された時、私は「音楽の友」の鼎談などで、「アニキ、何ちゅうことをするんだ、という気持だ。彼のレパートリーから言って、彼はウィーンには向いていないのだ。パリとか、フランスの歌劇場なら成功間違いなしなのに」と嘆いたことがある。それでももしかしたら・・・・と仄かな望みを抱いていたのは事実だが、やはり不幸にしてその予感は的中してしまった。
われわれの愛するスーパースターが、ウィーンでこんな立場に追い込まれているのを見るのは、本当に辛い。いても立っても居られないような気持である。
と、ここまで書いてしまって、今更なんですが、行動や生き方はともかくとして、純粋に音楽家としての小澤さんに対しては尊敬しているのですよ。特に、僕がベルリン留学中に、何度も彼はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会に登場して、素晴らしく緊張感に溢れた演奏を聴かせてくれた。ベルリンの聴衆が熱狂するのもよく理解できた。
サイトウ・メソードはともかくとして、一個人の音楽家としては、勿論最大限に評価しています。
2024.2.19