教皇フランシスコ、有り難う!

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

教皇フランシスコ、有り難う!
 僕は、3月30日の東京バロック・スコラーズ「マタイ受難曲」演奏会において、演奏会開始前のスピーチでフランシスコ教皇の事を語ったばかりだった。彼が、かつてアルゼンチンのイエズス会管区長をしていた時代、厳しい軍政がしかれていた中で、教会が弾圧され、何人もの司祭が連れて行かれ、迫害を受けたが、その中で彼は無力感を感じるしかなかったという。

 しかしながら、その後悔が原動力となり、教皇になってからは、まさになりふり構わず突っ走って、考えられないくらい素晴らしい働きをした。その姿を、僕は、イエスを3度知らないと言ったペテロや、自分の義務感からキリスト教徒達を迫害していたパウロなどと重ね合わせて、
「最初から何も落ち度や欠点がないことは素晴らしいですが、この受難曲の中では、みんな弱かったのです。でも、その弱さから目をそらすことなかったからこそ、イエスの復活以後、彼らは自らの命をも顧みず、目覚ましい活躍をしました。そうした人間の弱さのドラマを、これから演奏する受難曲で感じて下さい」
と、僕は自分のスピーチで締めくくったが、まさか、そのフランシスコ教皇が、こんなに早くこの世から去ってしまうとは思わなかった。
 勿論、体調が悪いことは知っていた。でも一時は持ち直したとも聞いていたからね。しかも復活祭の主日でその姿を見せておきながら、よりによって次の日に亡くなるとは・・・誰も予想していなかった。

 カトリック教会の教皇だからということではなく、ひとりの人間として、僕はフランシスコ教皇に最大限の尊敬と感謝を捧げる。

 彼の人柄を示すひとつの動画を紹介しよう。これを観ながら僕はいつも泣いてしまう。



滝沢ともえさんのお見舞い
 カトリック信者であれば、「静かに流れる水のように」という聖歌はご存じでしょう。このシンプルだけど美しい曲は、滝沢ともえ作詞、新垣壬敏(つぐとし)作曲である。

カトリック典礼聖歌集313番  静かに流れる水のように

静かに流れる水のように
全てをあなたにゆだねます
祈りの内に今日の日も
全てをあなたにゆだねます

野に咲く小さな花のように
全てをあなたにゆだねます
よろこびの内に今日の日も
全てをあなたにゆだねます

み空に飛び交う鳥のように
全てをあなたにゆだねます
感謝の内に今日の日も
全てをあなたにゆだねます
アーメン

 作詞者の滝沢ともえ(本名、滝澤共栄)さんとは、僕がカトリック関口教会(東京カテドラル)聖歌隊指揮者をしていた時に知り合った。その時にもうそれなりのお歳になられていたが、その後入院してしまって教会にも来られなくなり、ずっとベッドからも起きられなくなってしまった。
 僕が関口教会を離れてから後も、何度かお見舞いに行ったし、滝澤さんも、何かある度に携帯メールをくれるので、コンタクトは途切れることなく続いているのだが、なんだかんだと忙しくて、最近はお見舞いにも行けなかった。
 そうこうしている間に、僕は新国立劇場での仕事から離れて時間ができたので、久し振りにお見舞いに行った。滝沢さんのことは2019年10月14日の「台風に思う」という記事の後半に詳しく書いてあるので、興味ある方は是非読んで下さい。

 いつものように手を握って目を見つめて話す。彼女は、僕の「今日この頃」を欠かさず読んでくれているようで、最近の僕の状況をよく知っている。次女の杏奈が東京カテドラルで結婚式を挙げ、僕が新婦の父親としてヴァージン・ロードを歩いたことや、母親の死のことなどが話題に登った。
 それで僕は思わず言ってしまった。
「母の死の前の週末、家内の母親がある事故で入院したので、家内は金曜日に泊まりがけで群馬の家に行き、土曜日に帰りがてら僕の母の施設に会いにに行ってくれたんです。そうしたら、月曜日の朝に亡くなってしまって・・・彼女は偶然、亡くなる直前の僕の母に会うことができたんだけど、長男の僕は、生きている母に会うことができませんでした。その後悔があるために、大事な人には会っておこうと思ったんです・・・」

 あれっ?滝澤さんの表情がちょっと変だ。
「あ、いや・・・そういうことじゃなくて・・・」
 (ヤベえ)・・・ええと・・・ って、ゆーか・・・(死んじゃう前に会っておかなければ・・・とかいう意味では全然なくて)・・・(おお、冷や汗タラタラ)。
「これからは何回でも来ますからね」

 滝澤さん、ベッドに寝たきりで絶対辛いはずなのに、反対にとっても穏やかで、彼女といると、何故か気持ちが安らぐんだ。本当に不思議な人だ。やはり信仰の力が生きているんだろうな。
 以前のホームページの記事のように、手術の最中、心臓が止まっていた時には、美しい天国的な風景の中にいたのだが、蘇生措置をして心臓が動き出した瞬間、そこをいきなり追い出されてしまったという。それで、後で手術の担当医から、
「心臓止まっていた時に、あんなに穏やかで満ち足りた良い顔していたのに、動き出した瞬間、とても嫌な顔をしたのはなんでですか?」
と訊かれて、自分の体験を語ったそうである。

やっぱりタダ者ではない。

滝澤さん!まだまだ長生きして下さい。また何度でも行くからね。
 

高崎「椿姫」に関わって
 高崎の地産地消オペラ「椿姫」に関わっている。まずは合唱指揮者という立場で合唱の音楽稽古をしたら、合唱団のモチベーションが一気に上がって、見違えるように上手になった。立ち稽古に入っても、合唱のみならず、ソリスト達に対して、ひとつひとつの言葉の発音から始まって、それを歌うときのあるべき表現などのサジェスチョンをすると、その場面自体に活気が生まれてくる。
 演技には演出家の木澤譲さんがいて、指揮者は山島達夫さんがいるが、僕が話し出すと、皆さん、僕の意見を尊重してくれるので、とても有り難い。

 たとえば、第1幕冒頭。ト書きでは、舞台はヴィオレッタの家のサロン。みんなが集まっているが、そこにフローラと共に遅れた男性客達(合唱テノール)が入ってくる。すると、すでにいる人達(合唱バス)が文句を言いに行く。

Dell'invito trascorsa è già l'ora...voi tardaste.
招待の時間はとっくに過ぎているよ。君たち遅刻だよ。
すると、遅れた人たちは答える。
Giocammo da Flora, e giocando quell'ora volar.
いやあ、フローラの家で遊んでいたら、時間が飛ぶように過ぎてしまったんだ。
 冒頭の何気ない会話かも知れないが、こうしたシーンこそ重要で、きちんと演技しなければならない。ちなみにオーケストラのダイナミックはピアニッシモ。だから咎める方の人たちは大きな声でない方がいいが、voi tardaste「君たち遅刻だよ」には咎める色が欲しい。
 それに対して、答える方は、謝るどころかフローラの家で遊んでいたと悪びれることもなく答えるので、ある程度開放的な歌唱が望ましい。特にgiocando「遊んでいたら」quell'ora volar「その時間が飛んだ」のところは、あきれるくらいしゃあしゃあと答えるので、咎めた人たちも、
「全くしょうがねえなあ・・・」
という気持ち。
「ま、いっか」
で解決って感じ。

 そうしたことを、立ち稽古の中で、歌い方や演技の指導をしている内に、ハッと気が付いた。逆にプロの世界で演出家がこういう細かいニュアンスを指導することって、想い出してみても、ほとんどないんじゃないか、ってね。むしろ現代では、どういう個性的な舞台美術を作って、どういう演出効果を出すかばかりに注意が集中して、そうした細かいことはほったらかしになっている。
 無理もない。特に再演ものの演目は、新国立劇場などでは、全場面を2週間くらいで創りあげて本番に乗せるわけだから、特に新人の合唱団員などは、歌と与えられた動きを覚えるだけで精一杯だし、演出助手にしてもベテラン合唱団員にしても、そこを新人に丁寧に教えようなどという奇特な人はいない。それ以前に、大劇場で遠くから見たら何もしなくてもバレないしね。

 一方、アマチュアだと馬鹿にすることなかれ!そういうディテールにこだわって演技して見ると、場面にリアリティが生まれ、歌っている人たちだけでなく、周りの人たちもリアクションを自然にしたくなり、双方相まってシーンがひとりでにどんどん締まって生き生きとしてくるんだ。要するに演技の方向さえ間違っていなければ、どこまでも登り詰めていくんだよ。
 いやあ、こういうのがオペラの醍醐味だよね。言ってみれば、全て嘘で塗り固めているわけなんだけど、リアリティを追求しながら塗り固め続けていくと、ある時、全て真実のものに変貌し、感動を呼ぶのである。いやあ、やめられないね!

 最初僕は、こういう関わり方をしていると、指揮者や演出家の領域を侵すことになるかな?ともちょっと心配したのだが、すぐにそれは杞憂に過ぎないと分かった。指揮者がどんなテンポを取り、どんな音楽的解釈をしようが、あるいは演出家がどんな演技を要求しようが、むしろ僕がやっていることは「それ以前のこと」であって、むしろイタリア語のセリフから起因して、このイタリア語を発するためには、歌手は何を感じ、どんな精神状態でその言葉が心の中に生まれてくるのか・・・だとしたら、どんな表情で、どんな語調でそれを歌うべきなのか・・・という、もっともっと根源的かつ本質的な問いなのである。
 
 だからやっていてとても楽しいし、どんどん変わってきて、それを自分たちで感じていて喜んでいる団員達を見ていて、とってもしあわせな気分に満たされている。それに、本番が近づいて来て、彼らのテンションもハンパなく上がってきてますよ!
 キャスト達もみんな優秀。主役のヴィオレッタ役、高崎女子高校出身の鈴木麻里子さんの圧倒的な声と表現力。アルフレード役の金山京介さんの安定した歌唱と役作りをはじめとして、地方オペラというレベルをはるかに越えた感じで仕上がってきているので、高崎に限らす、今からでもみなさん予定に組んで公演に来て下さい。決して後悔しません!

神社と教会と「通し稽古」の日曜日
「椿姫」稽古と「ふる里」

 その椿姫の練習が、本番を一週間後に控えて4月26日土曜日と27日日曜日であった。26日土曜日は午後早くからソリスト達の「落ち穂拾い」と称するピックアップ練習をしていたようだが、僕は午前中、東京バロック・スコラーズの、「マタイ受難曲」後の初練習を、杉並公会堂地下2階のグランサロンで行っていたので、その後大宮から新幹線に乗って、15時30分からの最後の立ち稽古と、夜の合唱音楽稽古に参加した。

 練習後は、高崎市内にバレエスタジオを持っている演出の木澤譲さんの行きつけの店「ふる里」に呼んでもらった。高崎駅から聖石橋(ひじりしばし)に向かう観音通りの途中右側に、次女の杏奈が生まれた佐藤病院があるが、その手前の路地を左に入ったところにある小さなお店。指揮者の山島達夫さん夫妻も同席。テーブルが3つくらいとカウンターだけの小さなお店で、メニューに値段が書いてないので、初めての人は入りにくいだろうが、おかみさんは親しみやすく、出てくる魚やツマミがどれも第一級なのには驚くばかりだ。 ガラス張りの入れ物から勝手にビール瓶を出して飲み、後で本数を数えるというアバウトさがいい。後に、冷やの日本酒に変わり、満足してほろ酔いのままホテルに戻った。

朝のお散歩と高崎高校
 さて、次の朝、僕は6時に起きて、高崎駅前のホテルから高層ビルの市役所方面に向かって歩き始めた。市役所を過ぎ、道路に沿って右にカーブして群馬音楽センターを右手に観ながら、次に左折して直進し、烏川(からすがわ)に出た。


歩道橋から榛名山を眺める

 写真は陸橋の上から雄大な榛名山を眺めた風景。また視点を左に移すと、頂きに白衣大観音をたたえた観音山と、眼下には烏川に和田橋がかかった風景が見える。その道路の先、山の麓には母校高崎高校の体育館がある。


和田橋と観音山

 高校時代、高崎線新町駅を最寄り駅にしていた僕は、高崎駅を降りた後、近くの自転車屋に月決めで置いてある自転車に乗って、この烏川にかかる和田橋を毎朝越えて登校した。高崎高校(タカタカ)の校風はバンカラで、真冬でも素足に下駄なので、橋を渡り終わる頃には寒くて足の感覚がなくなる。僕が1年生の時には、教室にはストーブがなくて、教室に辿り着いても冷えた体を温めるすべもなかった。
 二年生の冬から、ようやくストーブが入ることになると聞いて、
「やったー!」
と思ったが、あろうことか学内で上級生を中心に反対運動が起きた。
「何を軟弱なことを言ってる!」
ということだそうだ。僕は、
「ストーブ入れようよ・・・」
と思ったけれど、大きな声で言える雰囲気ではなかった。でも、自分も寒くて困っていた先生達が誘導して、結局二年生の冬からストーブは入った。

 さて高崎高校を右に見て、僕の目的地はもうちょっと先。行く手に鳥居が見えてきた。そう、護国神社だ。ここで今朝も健康で起きられたことを感謝し、今日一日の実りある練習を祈った。


護国神社

 それから帰りがてらに、すぐそばにある山田かまち美術館をチラ見しながら、ホテルに戻った。

神社~教会~神とは?
 今日は、午後1時半から「椿姫」通し稽古があるので、午前中は空いている。マーラー五番のポケット・スコアを持ってきていたので、その勉強をしようかなとも思っていたが、散歩の途中で、烏川に向かう途中にあるカトリック高崎教会のミサの時間を見たら11時とあったので、ミサに行くことにした。

 おいおい、護国神社と教会のミサって、お前どういう神経なんだ!という声があちこちから聞こえてきそうだね。でも、僕には分からない。どうしていけないんだろう?僕は、仏教も凄いと思うので、京都に行ったら西本願寺に行くし、その一方で法華経にも惹かれている。その上で、仏教同士の争いは馬鹿馬鹿しいと思う。

 結局のところ僕の場合、信じているのは、この大宇宙を統べたもう究極的存在なんだ。その存在は、本来、
「こんにちは」
って人間の形をして出てくるようなものではないと思っている。
 むしろ宇宙に満ち充ちているエネルギーで、そこから万物が生まれた全ての存在の根源ではないか。だからそれは、完璧な愛そのものであるし、善そのものであり、全ての法則の源であり、そのエネルギーが僕たち全ての被造物を永遠に生かし続けているので、逆に言うと、僕たち全ての生きとし生けるものは、要するに、その存在にすっぽりと包まれているというわけである。

 でも、それだけだと、あまりにも抽象的で理解し難いので、地上に具体的に人間として生まれて、それを解き明かす人が必要なのだ。それが仏陀でありキリストなのだ。勿論神性を帯びているので“神の子”と呼んでもいいが、神の子は創造主そのものではない。だって、キリスト自身が「父なる神」って呼んで、祈ってるだろうが。

 だから僕も「イエス様」って呼びかけるし、祈りもするが、同時に創造主の息吹を日々生き生きと感じることが大切なのだ。神社は逆に「・・・様」と呼びかける人がいない分、むしろ全身で創造主の息吹を浴びることができる。
お寺は微妙。
 「阿弥陀仏様」と呼びかけてもいいのだが、イエス様と違って阿弥陀仏はいろいろ具体的に道を説いたりしてくれなかったので、神社みたいに静かにしている方が良い。「南無妙法蓮華経」と激しくトランス状態になりながら祈るのは、あまり良くない。特に、何か欲を抱いたままトランス状態になったら、絶対に変な霊が入って支配されますので、やめた方が良い。
 とにかく、広義な意味での“神”に近づきたくって、僕は神社にも教会にも喜んで行くのだ。というか、スキーをしながらでも、勿論音楽を奏でながらでも、僕の魂はおおいなるものに対して開かれており、その意味ではいつも祈っているともいえる。

 高崎教会のミサでは、神父様がユーモアに溢れた方で、信者達もみんな和やかで、気持ちが良かった。時々ミサの中で英語が使われていたのに驚いた。ミサ後、通し稽古まで時間があまりなかったので、教会をすぐに出たが、心の中は歓びで満たされていた。

ゴールデン・ウィーク緩やかに開始
 その後の「椿姫」の通し稽古も順調に流れたので、僕はハッピーな気持ちで自宅に帰ってきた。ということで新しい一週間がまた始まった。明日は、またまた高崎に日帰りで行ってオーケストラ合わせ。
 あさって水曜日は、久し振りに六本木男声合唱団の練習を見学に行きます。その事に関しては、もう少し経ったら書きます。こっそり言うと、バルセローナに行く計画があります。
 5月2日木曜日はまたまた高崎。午後から場当たり。夜はゲネプロ。そしてそのまま3日土曜日がいよいよ「椿姫」公演です。

 ということですが、ゴールデン・ウィークのため、来週の「今日この頃」は一週間お休みします。「椿姫」の報告も一週間後になりますが、まあ、うまくいくに決まってます!

では、皆様、良い連休をお過ごしください!

2025. 4.28



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