アッシジまでの長い道のり
新国立劇場では、プッチーニ作曲「トスカ」本公演が、全部で5回ある内の3公演すでに終了し、高校生のための鑑賞教室が6公演ある内の3公演終了していて、7月16日火曜日の時点で4公演目であった。
僕のアッシジに向けての最初のフライトであるエミレーツ航空の出発時間は、その日の22時30分なので、僕はこの公演の最後まで出て、カーテン・コールに合唱指揮者として呼ばれてから、合唱指揮者の衣装、「トスカ」のヴォーカル・スコアー、合唱フォロー用のペンライトなどを自分のデスクのある音楽スタッフ室に置いて、劇場を出た。
小学校5年生の孫の杏樹も、実はまだ夏休みに入っていなかったので、普通に授業を終えて帰宅した彼女を妻は車に乗せて、初台まで来た。僕と杏樹を乗せた車は、予約していた成田の駐車場にイタリア滞在中置きっぱなしにする。一方、長女の志保は日生劇場のオペラの練習が午後まで入っていたため、僕たちと合流することはせず、ひとりで電車で成田をめざして、現地で合流。
日本からアッシジまでの道のりは、予想をはるかに越えて長かった。今は、ロシアが戦争しているため、ヨーロッパまでの直行便は、例外もあるけど極端に少ないので、エミレーツ航空でまずはドバイを目指した。ドバイ着は次の日の午前4時10分だが、時差が5時間だから、日本時間では午前9時10分。もうそれだけでも11時間近く乗るんだよ。
ドバイ発は現地時間で午前9時10分、日本時間で午後2時10分。トランジットが5時間もあって退屈したのもあるけれど、中途半端な時差で、今が昼なのか夜なのか体が分からなくなっている。
さらに結局ローマ空港に到着したのが(現地時間で)13時25分。ドバイ、イタリア間でさらに時差が広がるというのが頭では分かっていても、不思議な感じ。って、ゆーか、もうワケ分からん!
今は夏時間で日本との時差が7時間だから、要するに日本時間で17日水曜日の20時25分ということで、結局、日本-ローマ間を約22時間かかって運航した。かつての直行便だったら10時間くらいだったものが、トランジットも含めて結局倍以上かかったことになる。ふうっ!
それからさらにイタリアへの入国審査を行い、空港を出て、待っていたタクシーに乗り込んで、アッシジを目指した。運転手は、アッシジの街が丘の中腹に広がっているのを見渡せるところで車を止めてくれたので、僕は街全体を写真に収めることができた。
アッシジの丘と街1
アッシジの丘と街2
そして、アッシジ街中のFontebella Palace Hotelに到着したのが16時30分くらい。日本時間では17日からさらに日付を越えようとする23時30分だから、成田出発から、ゆうに丸一日と1時間かかったことになる。
それでも現地時間では17日の夕方なので、荷物を解いて一息ついたら、街に繰り出してレストランを探した。志保がすでに調べていた、コムーネ広場から聖キアーラ教会に向かう通り沿いにあるレストランに入った。生ハムやチーズを初めとする食べ物、それにワインが、日本では考えられないほど美味しく、アッシジ初日から満足満足!しかしながら、こんな風に食べ物のことまで書いていると、いくら書いても書き切れないので、今後は、いろいろをサクッと書くことにするね。
さて、僕が実際に行動するのは、18日木曜日の午後8時からのアンサンブル合わせ。それまでは予定としては何もない。
練習開始
7月18日木曜日20時。聖フランシスコ聖堂の若いカペルマイスター(音楽主任)神父に案内されて聖堂内の修道院エリアに入り、練習室に行く。20時になっても誰も現れない。大丈夫かなあと思っていると、5分から10分遅れて、ぞろぞろと楽員達がやってきた。なるほど・・・これがイタリア時間というやつだね。
いよいよアンサンブル練習が始まった。曲は、一番長くて難しいMissa pro
Paceから。僕は、なにがなんでも(英語なんかに逃げないで)イタリア語で通すと決めていたので、頑張ってイタリア語で練習を進めていく。まあ、単語を並べさえすれば問題なく通じるし、お互い音楽家だから、こちらがきちんと指揮して、間違ったところやバランスなど気になったところを適切に直していけば、彼らは納得して付いてくる。
楽員は8人(1Vn. 2Vn. Va Vc. Cb. Fl.
Cl.、それと志保のピアノ~でも今日と明日は残念ながら電子ピアノ)で、みんな基本的には優秀なメンバーだ。しかしながら、日本の楽員と違うところは、平気で休みの小節を数え間違える・・・というか、そもそも真面目に数えていないで、曲想を聴いて、きっとこの辺かなと思って(どんぶり勘定で)入ってくるが、僕の曲ってイレギュラーだから、だいたいハズれる。なので、僕はほとんど全てのアインザッツを与えてあげるし、うっかり入って来そうな奏者には掌を立てて「待て!」の合図をする。こういうことに関しては、昔二期会でも新国立劇場でもプロンプターをやっていたのが役に立っているなあ。
彼らは音の間違えも平気でする。でも、それらを怒ったりせず根気よく丁寧に直していくと、しだいにみんなの視線に尊敬の眼差しが混じってきて、約15分後には、練習場はかなり好意的で明るい雰囲気に包まれた。
って、ゆーか、彼ら、もしかしたら、
「この人に任せておいたら、全部合図くれるから、今後も別に休みの小節数えなくても、いんじゃね。楽ちん楽ちん!」
なんて思ってるかも知れない。ま、いっけどね。僕も、別に彼らより優位に立とうなどとは考えてもいないので、冗談も交えながら和やかに練習を進めて行った。
その内、彼らもだんだん間違えなくなってきた。まあ、考えようによっては、機械的に小節を数えるより、曲想を理解して入ってくる方が音楽的かも知れないなあ・・・と・・・おっとっと・・・僕も彼らに洗脳されたのかも知れない。
そうして、1日目にしては、結構上手くいったが、長いミサ曲から始めたため、第1部の一番難しい、変拍子だらけのPreghiera Semplice(聖フランシスコの平和の祈り)が、不満足なまま残ってしまった。練習の最後に、僕は、
「Preghiera Sempliceは、また明日の合唱とのオケ合わせで、細かくやりましょう。明日は、曲順で練習します」
と言って、みんなと別れた。
ひとりの楽員が僕に近づいて来て、
「良い曲だね。こういう音楽大好きだよ」
と言ってくれた。嬉しかった。
始まったのがすでに20時なので、終わるともう23時。なかなか日本ではない時間帯だよね。ホテルに帰って、すでに買ってあったビールとワインを飲みながら、ブレッツェルやグリッシーニをつまむ(ブレッツェルって、ドイツの食べ物だけれど、イタリア人が好きみたいで、どこのスーパーでも売っている)。ベッドに入ったら、次の瞬間、もう朝だった。
朝の聖フランシスコ聖堂
(写真提供:川名裕子様)
いよいよ合唱団との合わせ
7月19日金曜日。20時から、本番で使う聖フランシスコ聖堂の上部の祭壇で、いよいよアッシジ祝祭合唱団と楽器奏者達との合わせ。そういえば国内演奏会をやった教会では内陣に入るな、とか厳格なことを言っていたが、神父様を含めて誰もそんなこと気にしない。合唱団は内陣に入りまくり。それよりもバジリカ(聖堂)内は、メチャメチャ残響が多いので、よっぽど歌詞をしっかりしゃべりながら歌わないと、何も理解できない状態になるので大変だ。
同じようにアコースティックな関係で、気を付けていないと、合唱とアンサンブルがズレるだけでなく、合唱の中でも端と端のソプラノとバスが平気で1拍近くズレる。聖堂だから仕方ないけれど、演奏会場とするとかなり難しい条件だ。
アッシジ祝祭合唱団のメンバーの他に、実はベルリンから、昔、愛知芸術大学の大学院オペラ実習で僕が教えていて、現在ベルリン国立劇場合唱団員でアルトを歌っている木下美穂さんが、お友達のソプラノの足立季實子(あだちきみこ)さんと、彼女の夫のテノールOlli
Rantaseppa
オリー・ランタセッパさんを連れて、助っ人として合唱団に加わってくれた。彼らは、僕たちのツアーとは関係なく、自分たちで宿を取って参加してくれたのだ。何と奇特な人たち!本当は、美穂さんの夫の木下基樹(もとき)君も来てくれる予定だったが、用事で来られなかった。木下君は、受難曲の福音史家などをやらせたら他に追従を許さないほど、リリックで柔軟なテノールで、彼の声を団員達に聴かせたかったな。
聖堂内の難しい音響状態の中、僕はみんなに聴き合うポイントなどを教えながら、丁寧に合わせていったが、バジリカ上部の聖堂は結構暑い。みんなも僕も汗だくになりながら練習を終えた。
ゲネプロの状況
7月20日土曜日。19時から20時30分までゲネプロ(総練習)で、21時から演奏会だって。ゲネプロが1時間半しかないので、とても通すことはできない。しかも、合唱団達には控え室というものはなく、トイレも使えないという。
何故なら、本来聖堂の前部から奥の空間は、基本的には聖職者のみのエリアで、コンサートの本番で出てくる直前以外は、本当は一般人は入れないのだ。合唱団員達の為には、聖堂の前の通りのBar(バール)に特別にトイレを借りてくれているという話であるが、ひとりひとり入るのでなかなか大変だ。
それを知っていた僕は、前の日にみんなに言っていた。
「ゲネプロは、この時間では勿論通すことはできないので、難しい箇所だけピックアップでやって、出来れば7時15分、遅くとも7時20分には終わろうと思っています。ゲネプロを本番の衣装でやることになっていたけれど、暑いのでやめましょう。ちなみに僕自身は、ゲネプロはTシャツでやって、一度ホテルに帰り、着替えて、ゆっくりトイレに入ってから戻ってきます」
このゲネプロで、志保は初めて本番のピアノを弾くことができた。やっぱり電子ピアノとは存在感がまるで違う。特に僕は、かなり華々しくピアノを浮き立たせて作曲していたので、他の奏者達は初めて実際のバランスを知って驚いていた。
そして迎えた本番
本番で僕は、曲の合間にイタリア語のスピーチをしたので、指揮よりも、そっちの方が緊張した。でも、そのスピーチを聴衆が結構喜んでくれたようである。演奏が終わると、前列の方に座ってくれていたお客さんは、スタンディングオベイションで答えてくれた。嬉しかった。
本番中は、演奏に集中し、何も考えなかった・・・と言えば嘘になるな・・・でも、本番っていつも不思議な状態なんだ。いつもより感覚が鋭敏になっていて、とても細かいところまで分かる。
「あ、あいつ半拍ズレた」
とか、
「フルートもっと出さないとみんなに埋もれているじゃないの」
とか、
「バス、走るな!走るとぶっ殺すぞ!」
とか、耳も研ぎ澄まされていろんなことが分かる。
それでいて、心は平安そのもので、それはそれ、これはこれで、この演奏会は絶対うまくいく、という確信に満ちている。僕がふたりいて、光につつまれている高次元の自分と、3次元世界に生きている自分が同時進行している、というのが一番近い感覚だ。
そうして演奏会も終わりに近づいて来た。聖フランシスコを心から尊敬し、洗礼名にもしている僕が、アッシジ祝祭合唱団を日本で組織し、練習を積んで、アッシジの聖フランシスコ聖堂で、自分の作品だけで演奏会を開く。まるで夢のようなことが実現している。その感動が僕を包んだ。
アンコールのPater Noster(主の祈り)の最後の音が鳴り終わる時、
「ああ、終わってしまう!」
と最後の音を切るのを惜しむ気持ちが押し寄せた。
Concerto終わった瞬間
帰り支度をしていると、クラリネット奏者が僕の方に近づいてきて言った。
「僕は、○○大学に教えに行っているんだけど(彼の名前でネットで調べてみたら多分ピアチェンツァ大学)、学生達に君のMissa pro Paceを是非やらせたいと思っているんだ。それで、もし可能ならば、来年あたり教えに来てくれないかな?」
「勿論、喜んで!」
「じゃあ、君のメルアド教えてくれる?大学と話をしてから必ず連絡する」
「分かった!待っているよ!」
やった!どんなお褒めの言葉よりも、こうした実質的な話は嬉しいな。賛辞にはお世辞が混じるかも知れないけれど、こういう話は、本当に僕の曲や指導を気に入ってくれないと絶対に出てこないからね。
まあ、実際の話に入ったら、互いのスケジュールの関係などあって、本当に実現するかどうかは分からないが、とにかく嬉しいのは、この演奏会によって、このように心が動いてくれる人が出てきたということ・・・とはいえ、可能なら是非、もう一度イタリアに来て、イタリア人の学生達と一緒に音楽を作り上げていく経験をしてみたい。だいたいさあ、僕のノリって絶対イタリア学生達と合うと思うよ。
Concerto合唱メンバー
サン・ダミアノの奇蹟とカルロ君
本番の次の日は、もう朝からアッシジを離れてマチェラータの野外音楽祭をはじめとした周遊の旅に出るので、本番のある20日の昼、僕は妻と二人で、まず聖キアーラ教会に行き、それからそのまま市門を出て、サン・ダミアノ教会を訪問した。聖フランシスコが初めてイエスの声を聞いた貴重な教会。本当は何はさておいても真っ先に訪れるべき場所だが、やはりスコアの勉強や、演奏会の準備に追われていたから後になってしまった。
志保は、演奏会の次の日には日本での仕事のためにアッシジを発って帰国してしまうので、今日は杏樹と水入らずで過ごしている・・・というより、街外れのスーパーマーケットに行って、二人でお土産物を買いまくっているようである。
市門を出て、オリーブ林に囲まれた下り坂の小道を妻と二人で散歩する・・・というと、のどかな感じがするが、実はとても暑い。勿論日本のようには湿気がないのでマシだけれど、照りつける日差しの強さは日本よりずっと強い。坂をずっと下っていくと、懐かしい教会が見えてきた。
サンダミアノへののどかな道
最初にここを訪れた時は1982年の春休み。ベルリンから電車を乗り継いで、ミュンヘン~ミラノ~ジェノヴァ~ローマと行き~アッシジに寄って~ヴェネツィアを通って帰って来た大旅行だった。そんなこと、若かったからできたんだね。
で、その時、このサン・ダミアノで、シスター達の群れに出くわした。当時まだイタリア語は全然しゃべれなかったんだけれど、その中にドイツ語を話すウィーン出身のシスターがいたので、ドイツ語で話しをしたんだ。僕の霊名が聖フランシスコだと言ったら、彼女は妻の方に向かって、
「では、あなたはクララ(キアーラ)なの?」
と訊いたので、妻は恥ずかしそうに、
「いや、残念ながらそうじゃないんです」
「あら、じゃ誰?」
「アンジェラ・メリチです」
その瞬間、シスター達の動きが止まり、真剣な顔をしながら互いに目を合わせている。
「あたしたちね、ウルスラ会(アンジェラ・メリチが作った修道会)なのよ」
こういう偶然がサン・ダミアノでは普通に起こるのだ。
2度目に訪問したのは、娘二人がパリに留学していた時、家族4人でパリからローマに飛んで、アッシジ~ローマ~ナポリ~ソレントまで足を伸ばしたが、サン・ダミアノを訪問した時には、なんと美しい虹が空に架かっていた。
2006年サンダミアノにかかる虹
さて、今回であるが、訪問している時には、特に大きな事は起きなかった。けれど、ある二つの掲示板に、僕も作曲したCantico delle
Creature「被造物の賛歌」のことが書いてあったので、写真を撮って、後で訳してみたら、驚くべき事が分かった。まず訳したものを読んで下さい。
このようにしてCanticoは生まれた
追加された二つの詩句
つまり、聖フランシスコは、賛美なんてとてもできないような、実に壮絶な状態の中で、
Altissimo, Onnipotente Buon Signore, | いと高き、全能の善き神よ | ||||||||||
tue sono le lodi, la gloria, | 賛美と栄光とすべての祝福は | ||||||||||
l'onore e ogni benedizione. | ただあなたのもの |
と、この賛歌を口ずさみ出したということなのだ。まさに最晩年の、彼の死に至るまでの状況の中で、まるで絞り出すように生まれた祈りだったのだ。
それを知った時、僕は何も知らないで軽はずみな気持ちで作曲をしたのかも知れないと、自分を悔いた。しかしながらね・・・・その晩の演奏会で、僕はこの曲を指揮しながら、別のことに気が付いた。
「確かに僕自身、表面意識ではよく分かってはいなかった。けれども、作品自体は決して軽はずみになんか作られていない。僕の曲はその時、まだ無知な僕の手を通して書かれていたが、作品そのものは、もっと深いところから流れ出て来ている。そして真実の世界に触れている。そしてそれ自体に僕も感動させられていたんだ」
僕は、うぬぼれて言っているのではない。むしろこのうえなく謙虚な気持ちになっている。
マリアさまも言っているだろう、
身分の低い、この主のはしためにも
目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も、
わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が
わたしに偉大なことをなさいましたから。
この謙虚さこそが、僕が今回サン・ダミアノからいただいた奇蹟である。
サンダミアノ中庭
サン・ダミアノを訪問した後、僕と妻は、再び市門まで戻り、それからサンタ・マリア・マッジョーレ教会に向かった。15歳で亡くなったカルロ・アクティス君に遭うためである。
ホームページを見てもらうと分かるが、カルロ君は、1991年にロンドンで生まれ、すぐにミラノに移る。ごく普通のサッカーが大好きな少年だったが、聖体の秘蹟への賛美と聖母への崇敬が深く、ホームレスを支援するボランティア活動に参加していた。コンピューターやインターネットの専門知識に優れていたので、聖クレメンス1世と殉教者研究所の協力を得て、世界の聖体の奇跡に関するウェブサイトを作成。さらに各地で展示会も精力的に開催したという。
2006年10月初旬に白血病を発症。そのまま10月12日に亡くなってしまった。やがて遺体は本人の遺言によりアッシジに移された。2024年7月1日、教皇フランシスコによって招集された枢機卿会議によって列聖が承認された。つまり、聖人に認定されたばかりの彼に遭いに行ったのだ。
彼の遺体は、気軽な若者らしい服装のままで、腐敗するどころか、本当に眠っているようで、いつ、
「やあ、みんな!」
と目覚めても不思議がないくらいだ。遺体が腐らないから聖人になるというものでもないが、実際にそれを目にすると、特別な恵みが彼のまわりに漂っているのを感じる。
その後の記事は来週書きます
さて、7月20日土曜日の演奏会を無事終えた僕たちは、次の日の朝、アッシジを離れ、マチェラータのアレーナでガラ・コンサートを観たり、ウルビーノ、ペーザロ、ラヴェンナと周遊して、ボローニャから帰りの飛行機に乗って帰って来た。これを書き出すと、また長くなるので、来週に回します。
2024.7.29