まさに総合芸術「アイーダ」

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

新学期と復活祭
 4月1日は日曜日だったので、4月2日月曜日の今日から、杏樹の通っている保育園では新学期が始まり、杏樹はチューリップ組からスズラン組に進級する。一般的には年中組の年齢である。
 今年は、桜をゆっくり楽しむ間もなく葉桜となってしまったので、「桜の中を」と言えないのが残念であるが、春のすがすがしい風の中を、希望に眼をキラキラさせた杏樹を乗せた長女志保の自転車が出て行った。その後ろ姿を見送りながら思った。
「大きくなったなあ。よくここまで元気に育ってくれました。そして、杏樹を身近で見守るしあわせを与えてくれる神様に、本当に感謝!」

 朝のNHK連続テレビ小説も、先週いっぱいで「わろてんか」が終了。今朝から新番組が始まった。「わろてんか」は結構面白かった。このドラマは、サイド・キャストが大活躍していて、特に僕は風太役を演じた濱田岳のことを凄いと思う。きめの細かい丁寧な演技。憎たらしいと思う時もあれば、人情溢れる時もあり、ドラマの途中でかなり泣かせてもらった。また、リリコ役の広瀬アリスが可愛いし、気の強い女性をよく演じていた。やや地味かも知れないが、風太の妻トキを演じた徳永えりさんがいい味を出していた。一番気に入っていたのは、実は少女期のてんを演じていた新井美羽ちゃんで、その笑顔を見ているだけで、こちらも自然に笑顔になってしまった。
 こういうと、いかにも主役が冴えないみたいだけれど、まあ、こういう番組もあっていいのではないか。葵わかな演じる北村てんの存在感が薄いのは事実。でもそのお陰で、それぞれの脇役のキャラが見事に際立って、ドラマが予想以上の広がりを見せ、かつ堀が深くなったのだから、トータルとしては大成功ではないか。それも、狙ってのことだったとしたら稀有なるプロダクションだ。

 教会では、昨日4月1日が復活祭。その前が聖週間である。僕は、聖木曜日は「アイーダ」舞台稽古が8時くらいまで行われていたので東京カテドラル関口教会のミサには参加できず、聖金曜日もやっぱり「アイーダ」でつかまっていたけれど、通し稽古だったので途中参加。聖土曜日と復活祭の主日はまるまる参加という感じであった。
 復活祭前の四旬節といわれる時期には、教会では華やかな「栄光の賛歌Gloria」は歌われないが、聖土曜日の礼拝の途中で、その前の「憐れみの賛歌」もなくいきなり復活するのだ。ロウソクに灯がともされると同時に高らかに「栄光の賛歌」が響き渡るのを聴くと、いつもウルウルして歌えなくなる。この曲が歌われている間中、ずっと鐘が聖堂の中で響き渡っているのも感動を倍加する。

 ヨーロッパでは、復活祭は春の到来の証。ここのところ暖かい日が続いているので、衣替えをしないと着るものがない。花粉症がまだ続いているので、すぐにではないけれど、スキー・シーズンも終わったので、そろそろ水泳も復活したい。  


まさに総合芸術「アイーダ」
 何故だか分からないが、今回ほど「アイーダ」という作品が傑作だと思ったことはない。特にフランコ・ゼッフィレッリ演出のこの豪華絢爛な舞台で味わうと、ヴェルディの偉大さが胸にひしひしと迫ってくる。
 現代に生きる我々は、ヴェルディのオペラの芸術性ばかり問題にする。でも、テレビも映画もない当時は、オペラも娯楽のひとつに位置づけられていた。つまり極端に言えば、人々はオペラの中に、テレビも映画もインターネットも全て求めていたのだ。
 その全てを、これほどまでに見事なやり方で満足させてくれる芸術家が他におろうか?特に第2幕第2場の凱旋行進曲の場面では、百人の合唱団の他に沢山の助演による行進、バレエ・ダンサー達の見事な踊り、子ども達の可愛い振る舞い。舞台上の10人のアイーダ・トランペット、それに、なんと2頭の馬まで舞台を駆け抜けながら、膨大なエネルギーを客席に向かって放出している。これぞエンターテイメントの極み。
 そして、その凱旋の歓呼のさなかに、エジプトの勇者ラダメスに王の娘のアムネリスが与えられ、戦いに敗れた敵国エチオピアの奴隷であるアイーダは絶望に打ちひしがれる。凱旋の場面を単にオリンピックの開会式のように終わらせていないのも、ヴェルディの音楽に、しっかりドラマが刻まれているから。
 だから、このオペラはトータルとして味わうべきであり、ここから音楽の要素だけ取り出して、あれこれ批評するのはアプローチとして相応しくないのだ、と今回強く思った。これは、限りなくハイレベルな娯楽作品なのだ。

 それは、逆の言い方をすると、演じる方にとっては、自分が今置かれている状況、もっと具体的に言うと、自分の背後の舞台美術に負けないだけのオーラを出して歌い演じるべしということなのだ。だから、ソリスト達も合唱団も、しっかりしたベルカント唱法で、淀みない歌唱と演技を披露しないといけない。実にハードルが高い。

 アイーダ役の韓国人歌手イム・セギョンは、見た目日本人と見分けがつかず、合唱団の中に紛れ込んでしまったらどこにいるか分からないほどだが、ひとたび声を出したらビックリ。絶対日本人にはこのように歌えない。何が違うんだろう。骨格もなにもほとんど変わらないのだったら、やっぱりキムチ・パワーか?・・・うーん・・・それより結局のところメソードなんだろうな。
 アムネリス役のロシア人歌手エカテリーナ・セメンチュクは、予想したとおり、というかむしろ期待を遙かに超える素晴らしいメゾ・ソプラノ。声量、音楽性とも申し分ない。

 昨日からオーケストラ付き舞台稽古が始まった。指揮者のパオロ・カリニャーニがいつになく丁寧に稽古を付ける。昨日は昼と夜を使って第1幕と第2幕を2回ずつ通した。今日は第3幕と第4幕。明日はゲネプロ(総練習)。
今週の木曜日つまり4月5日18時に初日の幕が上がり、22日日曜日まで7回公演。

この舞台は、新国立劇場の宝。一生に一度は観ておいた方がいい。

ホントにシーズン最後のスキー・レポート

あこがれと幻滅
 あれは2011年の1月だった。(2011年1月17日24日の今日この頃)スキーを本格的に始めてから、初めて白馬五竜スキー場に行って、モーグル・スキーヤーの上田諒太郎さん、次の日は角皆夫人の美穂さん、そして3日目に角皆優人君からいう風に、連日レッスンを受けた。レッスン受け始めは、まだパラレルになり切れていなかった僕であったが、講師達が優秀なお陰で、数日間に格段の進歩を遂げた。
 その時の白馬には、どか雪が降りしきっていた。当時泊まっていたペンション・ウルルの窓から見えていた庭の乗用車が、一夜明けたらこんもりとしたお山になっていたのには驚いた。屋根からは大きなつららが垂れ下がり、深夜になると、あたりはまるで聴覚を失ったかのような絶対的静寂に閉ざされ、雪は、この世のすべての汚れや醜さをその白さで覆い尽くしていた。
 雪というものの、ひそやかな、しかしながら絶対的ともいえるパワーに、僕はすっかり圧倒されてしまった。まるで母の胎内にいるようなその神秘的な世界は、いつも僕の原風景として心の中にあった。

 だから、それから2年経った4月上旬。名古屋の「パルジファル」のオーケストラ練習の後、名古屋から電車を乗り継いで白馬に行った時、次の朝のゲレンデの景色には激しく幻滅した。あの閉ざされた清冽な雪景色はそこにはなく、代わりにあったのは、赤茶けた土がむき出しになり、集められた雪でやっと下までの道が確保されたとおみゲレンデであった。
「なんて醜いんだ!」
と僕は思わず心の中で叫んでしまった。

春の胎動
 話を今に戻そう。2018年3月26日月曜日。僕は、まぎれもなく今シーズン最後のスキーをしにガーラ湯沢に行った。その前の日から全国的に晴れとなり、気温はどんどん上昇していた。新幹線と直結しているスキーセンターのカワバンガからゴンドラに乗ると、雪の白さの間から茶色の山肌が大きく露出していた。その雪自体も汚れていた。しかし僕は、数年前とは違って、それを醜いとは思わなかった。
 というより、それは自然のあるべき姿なのだ。冬が後退し、暖かい南風に吹かれて、雪の中で眠っていた生命が、今や再び芽吹く時なのである。山肌を覆い尽くしているそれぞれの裸木からは新芽が出て、やがては美しい緑が支配する。その胎動が山のあちこちから聞こえてくる気がする。
 スキーをする立場からすると、
「ああ、雪がどんどん溶けていく」
としか映らないが、トータルな目で見ると、それは巡り行く季節のひとつの風景なのである。だから、あるがままに受け容れよう。

春のコブに挑む
 ゲレンデの雪はもうかき氷のようで、当然ながらハイシーズンのクォリティは望むべくもないが、コブを練習する者にとっては、むしろこちらの方がベスト・シーズンと言ってもいい。硬く凍り付いたコブの溝では、滑って足を取られてどうにもならないけれど、このグサグサ雪は、どんな深い溝でもグズグズと壊れてくれるから、ズラしながらゆっくりと自分のスタンスを確認し、安全に滑ることが出来るのだ。
 残念ながら、前の日(25日日曜日)までオープンしていたのに、コブの豊富な南エリアは、今日からクローズしてしまい、このままシーズン終了までもうオープンすることはないのだろう。するとコブ斜面はひとつだけ。僕は北エリアのスーパー・スワンでひたすらコブに挑む。

 コブは、どんなに挑んでも物足りなくなることはない。ある時、楽に滑れたと思っても、次に同じ所をスピードを上げて滑ったら、見えてくる景色がガラッと変わる。ちょっと油断して吸収動作を怠るとすぐに出口で飛ばされるし、深い溝で外向傾を怠ると、ズラす前にただちにスピードオーバーになってしまう。
 角皆君と一緒に滑ってコブはもう恐くないぞと思った僕だけれど、だからといって「楽ちん楽ちん」とは決してならないのがコブの厳しいところ。だから楽しいともいえる。ということで、気が付いたらかなりガシガシとコブと格闘していた。でも、最後には、結構「コブのことを分かってきた」という感触を持てるようになった。

 角皆君は、
「あまり深いところに入らないでね。危ないから」
と言ったけれど、時々、あえて深いところにトップを下げて入ってみた。こんなこと出来るのもかき氷のような雪だから。溝に入ったら足を伸ばす。その逆に、コブの出口では、和式トイレくらいしゃがんだ吸収動作の姿勢でないと飛ばされる。こうした極端な上下動の練習もやっておくと、様々なコブに対応する柔軟性がつく。
 トップを下げてコブの溝に入っていくのは、慣れないと恐い。でもトップがバネの役割をしてたわんでくれる。これは結構快感!それから、吸収動作がうまくいって、重力がゼロ(すなわちジャンプ)にならないでコブを越えられると、バッハの付点音符の浮遊感を体感出来るから楽しい。音楽家にはみんなこの浮遊感を味わって欲しいなあ!

 でもある時、一番深い溝に勇気を出してトップから入っていったら、板がたわむ前に溝に突き刺さってしまい、そのままスキー板がはずれてポヨンと目の前に飛び上がってコブを越えて落ちていった。これも雪が柔らかいから。
「まてえ!」
と追いかけたら、二つくらい先のコブで停まった。ちょっと膝が痛かった。
 そういえば角皆君は、あの硬いSpeed Chargerを3度も曲げたと言っていたけれど、こんな時に曲がるのかな。しかしこれでは板が曲がる前に膝を痛めるな。さいわい膝はその後なんともないからよかった。

カーヴィングスキーの楽しさとややこしさ
 今日はVelocityで滑っている。とても板がたわんでくれるのでコブ向きなのだが、モーグル専用板である244の方がコブでは圧倒的に力を発揮する。とはいってもスピードが出るとかではない。逆だ。Velocityだと、時々ズラそうと思うのにカーヴィングしてしまい、「おっとっと!」と思う時もある。244では絶対そんなことはない。百パーセント確実にズラしてくれるからとても安全。

 逆に言うと、そのカーヴィングこそVelocityの魅力でもある。整地ではひたすらショートターンの練習。切り替えの時、「体を前に倒す代わりに足を後ろに引く」というのが、やっと体に入ってきて、半ば無意識でも出来るようになった。
 逆ハート型を描いたり、ターンの終わりのズレ要素を少なくして次のターンにつなげ、無限大マーク∞を描いて滑る。ショートターンの場合、極端な外向傾を作って、板が左右を向いても上体は常にフォールラインを向いている。

 すると不思議なことが起こった。ラディウス(板のサイド・カーヴを形作る円の半径)の小さいVelocityでは、板が勝手にカーヴィングするので、上体は一定の方向を保っておくと、下半身だけがまるで別の生き物のように板をさばいているのだ。もっと言うと「僕の下半身が」ではなく、「板が」さばいているのだ。下半身はそれに対応しているだけなのだ。主導権は板であって僕ではない。
「なるほど、これが板に仕事をさせるということか。まてよ、もっと外足を伸ばして、両足を離して、よくデモンストレーターがやっているようなショートターンをしてみよう」
すると・・・出来た出来た。

 外足を伸ばし切り、内足はたたみこんで下半身だけで操作するのだが、ターンが終わる時には、板が自然に体を押し上げるようにしてターンを仕上げてくれる。そのタイミングに合わせて、いままで伸ばしていた足をたたむと、ほぼ自動的に切り替えてくれる。つまり「抜重を板が行ってくれる!」のである。
 なあるほど・・・だから最近の雑誌などでも「抜重を考えない」というのがあるのだな。しかーしですよ、みなさん。抜重はれっきとあるんですよ。抜重は、ないはずはないんです。これまで外足にガッツリかかっていた重力をはずして新しい外足に乗せないといけないんです。これが抜重と言わずして何ですか!上体の高さが一定なので、これは、板の助けを借りた屈伸抜重の一種だ。
 板が助けるとはいえ、本人が今何が起こっているかを意識しなかったら、テクニックの上達は望めないし、第一そのままスピードを上げたら危ない。それにこれには、基本的なショートターンがきちんと出来る人でないと到達出来ない。

 このように、板が進歩しても、それを支える理論や滑る人の意識が追いついていないのだ。上手な人は、自分が下手だった時のことを忘れているから、「抜重は意識しなくて良い」とか、ひどいのは「私は抜重はしてません」なんてこと言う人がいるのだけれど、そういう人はみんな自分では抜重を知っているんだ。僕は、最近まで下手だったから、下手のままこのカーヴィング・ショートターンには決して辿り着けないことを知っている。
 だから初心者のみなさんは瞞されてはいけません。デモンストレーターのショートターンを見て、一足飛びに「あれをすぐやりたい」などと思わないように。デモンストレーターの滑りが、一般の初心者とかけ離れていることが問題なのだ。

 とはいえ、一度このカーヴィング・ショートターンを会得すると、確かにこれはこれでめちゃめちゃ楽しいや。上半身は、フォールラインを向いて一定なだけでなく、腰までの高さも一定で、スーッとゲレンデをそのまま下に降りていく感じ。一方下半身は、板の動きやゲレンデ形状に応じて上下左右にめまぐるしく動き、まるで「祭りで若い衆達が神輿を担いで高速で走り、神輿の上では美しいお姫様の前にあるお茶の表面が微動だにしない」みたいな感じ。あるいはカニが甲羅の高さを保ちながら超高速で移動していく感じ。
 だから、全日本スキー連盟が、この楽しみ方を前面に押し出してアピールしたい気持ちも良く分かるよ。これに資本主義が乗っかったら、数年前までの誤ったスキー教程の暴走につながるモチベーションも理解できなくはない。新型のカーヴィングスキーがどんどん売れるだろうからね。でも、それを一足飛びでいけると勘違いさせた罪は大きい。

 今シーズンのホントにホントのラスト・ランは、毎年のようにガーラ湯沢の下山コース。ここではカーヴィング・ターンは一切使わなかった。何故なら、コースが荒れ放題で、あっちこっちコブが出来ていたし、第一、そこが単なる吹きだまりなのか実体のあるコブなのか見分けもつかない。
 こんな時はカーヴィング・ターンは使ってはいけない。もの凄く上手な人以外は危なくて仕方がない。だから僕は、縦長のSで、すねでブーツのベロを押しながら外足加重を徹底させ、スキーヤーもスノウボーダーもどんどん追い抜いて、ジェット機のように駆け抜けた。時々、小さいコブを使ってジャンプした。エヘヘ・・・。

 下山コースの麓は、コース以外にはほとんど雪がなく、まさに春爛漫。
ありがとう、スキーよ!ありがとう板よ!ブーツよ!ストックよ!そしてゲレンデよ!
また次のシーズン、僕を歓ばせておくれ!
こうして僕のスキー・シーズンは、ホントにホントにこれでおしまい!



Cafe MDR HOME


© HIROFUMI MISAWA